イッセー尾形の字の部分 演出家森田雄三 語録ブログ
森田雄三語録ブログ
「一人芝居を創る」について

 楽ちん堂に稽古に来ているナツメさんが「一人芝居」を書いてきた。ナツメさんには幼子がいて介護の仕事をしているから、大変に忙しい。週に一度の稽古に来るのも容易ではない、だろう。だから彼女が考えた方法が「一人芝居」だ。これだと空いた時間に、台本を書いたり自主稽古が出来ると考えたのだろう。なんとか「自分しかできない創作」に拘るのもよく分かる。

 昨日、20分ぐらいの長さの台詞を書いてきたのだが、面白い面白くないというより、よく書いたと思う。ちゃんと喋り言葉になっていて、読み上げる時に「相手に話し掛けていた」のだ。それより凄いのは、読み上げる20分の間、テンションというか、緊張感が一定していた。「姑の悪口」を言うのだが、その恨みが「深く・長く」持続されているということだ。多分、ナツメさん本人の思いと重なる部分があるのだろう。だからリアリテーはあるという事だ。

 芝居に立ち上げるのは「書き言葉と喋り言葉」のお手玉から始める。演劇は「書き言葉でまとめた日記帳」とは違うのだ。友達との「馬鹿喋り」でもない。第三者が共感を得るものににしなければならない。共感というのは「客が笑う事」でもある。「唯一の登場人物」である役者が滑稽にならなければならない。あたかも「相手がいるよう」見放さなければならない。観客から見えるのは「ひとり」だが、登場人物は「相手役がいる」と思い込んでいる。認知症の老人が「一人なのに話し掛けている」というのは、痛ましくもある」が、「幸せそう」に見えなくもない。僕の母親は晩年「人形」によく話しかけて満足そうだった。

 ナツメさんの場合、「怒りや恨み」が「場違い」「お門違い」になる必要がある。観ている観客が「笑う」という意味は、「怒りの掃き出し場所」が他にない、ということだ。言うならば「滑稽なほど孤独である」ということだ。

 そうすれば、観客は主人公に同情するとともに、その痛ましさに打たれる。この優しさの表現は、見る人にとっては「笑い」であるのだ。日常では味わえない「複雑な感情」こそが、ライブの醍醐味といえる。観客は「滑稽と悲惨」の感情を同時に感じるというのかな。予期せぬ感情に観客が「自分が飲み込まれる」からこそ「感動」なのであって、「雄三WS」が目指しているのは「感動の塗り絵」ではない。

 「そういうのをどうやって書いたらいいんですか?」とナツメさん。これまでは「ただ書きゃいいんだよ」と答えていた僕だが、「この稽古場にあるものの中で、何を書こうと思う?」と聞いたら、ナツメさんは「キヨコさん」と答えた。皆に食事を出し終えた連れ合いのキヨコが、皆とテーブルを囲んで話していたのだ。ナツメさんはキヨコの話を聞いていたのだろう。

「そりゃ駄目だね」と僕。「キヨコの事を書こうとすると、ナツメさんの筆が止まると思うよ」。

 僕が言った趣旨をまとめると、「書き続けられるもの」が「興味があるもの」と一旦決めるということだ。分かりやすく説明すると「好きな人」に思いがあるなら、その人のことが口を突いて出る。逆に「その人について言う事がない」なら「興味がない」ということね。「好きだけど喋れない」はありえない。その人を思っても「脳が回らない」なら、好きではないということね。

 だから「書き続けられる事柄」を「興味がある」にしようではないか。「自分の事しか喋れない」のは「自分しか興味がない」と僕はしている。

 こう書くと分かると思うが、ほとんどの時間、我々は「自分にしか興味がない」という事が出来る。あるいは「阪神タイガース」や「サッカー」のようなスポーツ。あるいは「遊園地などの娯楽施設」、あと「グルメ」や「オシャレ」などの商業主義を「自分の興味」としている。これが生活であり、僕は非難しているわけではない。僕もそんな生活をしている。

 がたまには「自分が興味を持っているもの」を探ってみるのも悪くないだろうと思う。できるだけ「個的な興味」というのかな。その発見を僕は「創作」と名付けている。「創作行為」を行うと「周りの人が別人に思える」というのはよく起こる。「雄三WS」の体験者なら分かるはずだ。

 日経新聞主催の「雄三WS」では、未だに新年会とか忘年会を行っているとか。5年前に一週間だけ付き合い、芝居をしたに過ぎないのにだ。彼らは日常の付き合いは全くないのに、節目に集まるっているから、不思議と言えば不思議でしょう。

 一人芝居の書き方に戻ると、「書いてみればいいだけ」で、「すぐに書けなくなる」のが大事なのだ。これを行うと、例えば「トタン屋根」について、「ちびた鉛筆」より長く書けるかもしれない。その時ん「もしかしたら自分は『トタン屋根』に興味があった」と思えるかもしれないのだ。

 小説家保坂和志さんは「カンバセイション・ピース」で、猫の描写を何十ページにも渡って書いている。好き嫌いを別にして保坂さんは「猫に興味がある」のが分かる。というより圧倒される。自分でも「猫好きな人たち」に好意的になったのが分かる。フェイスブックに猫の写真を載せる知り合いは、何の他意もなく「我が猫」が好きなのだろう。うざく思っていた「猫好きな人たち」が愛おしくならる。保坂さんの小説で、僕の「ものの見方」が変わったということだ。得した気分になる。

 だから、芝居でも小説でもいいが、書くことは得することと僕は思っているし、そう言いたいのだ。自分が「こんなことに興味があったのか」と驚く為には「書いてみる」のが一番いいと思っている。

 僕は「自分という牢屋から出よう」と名付けて40年になる。

 

| - | 15:05 | comments(0) | - |
「新しい小説」というか、我々の現実を反映した小説について。

 神戸WS参加者の松尾君の小説の冒頭。

 

 8月上旬の日差しは暑かった。気温が何度あるのか? 異常気象の影響が関係しているのか? 南極や北極の氷がどれくらい溶けているのか? そんなことは関係なく暑かった。

 西さんはオールバックの前髪が垂れ下がるほど汗をかいていた。65歳のおっさんに可愛いという表現は失礼なのかもしれないが、今は可愛いという表現でいいだろう。

 蝉は鳴いていなかった。 風も吹いていなかった。

 緩やかな下り坂の先に門があった。帰りは緩やかな登り坂を行かねばならないのは当然のことなのだった。

 「さっきの担当者は事前に門を閉めて下さい。なんて言ってませんでしたよね?」

とぼくが思っていることを西さんには話さなかった。

 言ったところでなにかが変わる訳でもなかったのだから。

 蝉は鳴いていなかった。 風も吹いてはいなかった。

 自分の影を見ながら歩くことは久しぶりだった。影がこんなにも黒々と輪郭を表すものなのかと驚きよりも、150センチ前後の西さんの影はやはり小さかった。

 西さんは自分のことをリトルジャパニーズと呼んでいた、という話を先輩から聞いたことがあった、どうやら、西さんは自分の身長のことを持ちネタのようにスナックなどで話をしていたらしい。ぼくは西さんがそんな話をしている姿を見たことも聞いたことはなかった。

 

 主人公から見える描写から感慨が書かれているから、読者の僕に「人間的なもの」を感じさせない文章なのだ。この小説の主人公は、一日中炎天下の巨大な駐車場の「白線の補修」をするのが仕事だ。だから、この小説は「時間をやり過ごす」だけの内容といえる。喜怒哀楽がない時間を書こうとしているのだ。低賃金の肉体労労務者の時間の過ごし方ともいえるし、記憶から消す時間ともいえる。

 我々の労働のほとんどは、記憶から消される時間の使い方がほとんどではあるまいか。

 

 一頃、僕は「主観が入らない風景描写」を、書いたり、集めたりしていた。こんな中の記憶に残っている断片。

「見渡す限りりの幹は重力に逆らって、真っ直ぐ天空に延びている。幹に絡まった蔦は、力を抜いて垂直に地球の中心に向かって垂れている。根は岩にぶつかり、曲がりくねって岩にしがみついている」

 小説は「人間中心」になるのは致し方がないとしても、人間存在以前に「風景はあった」のだ。こんな理屈から、僕は人間の「考え・感じ」はちっぽけに過ぎず、「人間を超える世界」を、真の創作だと思ったものだ。

 一番簡単に説明するなら「自分の死」だけどね。大方の人は「自分の死後の世界」を想像するだろう。「死の宣告を受けて感じたこと」と書くと、「ぬけぬけした嘘」になるのを知っている。「死」はゆっくり、じんわり、時間をかけて、ふいに感じるものだ。しかし、僕が「人間の存在を超える世界」と考えるようになったのは、僕の「癌体験」と関係しているだろうとは思う。その「片足切断」の前の10年間は建設労務者をやっていたから。ある日世界は一変した。病気で手術する直前まで、新築マンションに鉄のドアを取り付ける為に、一枚一枚を背中に担いで、仮設の鉄階段を運び上げていた。蟻の子のように地べたを這いずり回っていたということだ。

 で、退院後に「イッセー尾形の一人芝居」が馬鹿当たりした。「現実のこっち側」じゃない世界を体験せざるを得なかったってことだ。

 去年の暮れに、神戸WSのタエシマ君が、小説を書く気になって、僕のところにやってきた。彼は中学生と小学生の父親であり、ハードなセールスの仕事をしている。そのタエシマ君は終電で寝過ごし終着駅で起こされるれ、始発まで待つしかないと言う。それも多いと週に3度もだと。ファミレスで時間を過ごしたり、ベンチで眠ったりするそうだ。これが何年か続いている。冗談半分だったろうけど、深夜「駅から駅を歩く」のを小説にしたいと言ったのだ。

 日常化した「電車で乗り過ごす」をどうやって文章化したらいいのか分からないだろう。原因を捜したりしても「寝過ごす」という現象は変わらないのは本人が一番知っているに違いない。

 僕は夜中一人で真っ暗な道を歩いている時に、開放感があるのではないかと思っている。なまじ救いのある懲役刑よりも、希望のない終身刑のような物じゃないなかろうか。

 とにかくタエシマ君には「どうにもならない現実」を、「創作」で面白おかしく描いてほしいと思っている。

 我々は、反省しても、決心しても、同じ間違いを繰り返しているのが現実だからだ。

 冒頭の「風景描写」さえ書ければ、後の内容は「自分の事」だから好きに書けばいいのだ。創作とは最初の数行にあり、それがすべてなのだ。タエシマ君が書いた小説なんて面白がる人は居ないだろうから、雄三が面白がればいいのだ。

 

| - | 02:09 | comments(0) | - |
「文字が読めなくて詰まるよ」うになった。

 僕は脳梗塞で「字を読む」と、脳が損傷したらしいのが分かる。新聞はこれまで通り読めるのだが、「素人の投稿」に詰まってしまう。新聞の投稿欄などの文章ね。

 今朝読んだ新聞に、母親らしき人が、30年前に、3人の子供が登校拒否になったと書いていた。「娘は、愛犬にすくわれた」という箇所まではすらすら読めるのだが、その個所で、どうにも読めなくなった。「愛(あい)」という字も、「犬(いぬ)」という字も読めるのだが、「愛犬(あいけん)」とは読めないのだ。多分「娘の名前を『愛(あい)と読んでしまったのだろう。そうすると「犬(いぬ)」という文字が、何故ここに入っているのか分からない。だから、その後の平仮名をどこで区切っていいのか分からない。「に、すくわれた」を「にすく」と区切ったりするから混乱の極みとなる。で、スタッフのユウジに来てもらって、この個所を読んでくれと言ったら、さっと読んだ。

 後で理屈で考えたら「登校拒否」と「犬」の繋がらなかったのだろう。が、詰まったのは「愛犬」という語彙だったから、「愛犬」が問題なのだ。簡単にいうと僕の脳の辞書から「愛犬」のページが消えたということだ。

 僕は以前にも脳溢血をやっているから、これに似た体験をした、風呂に入っていて「ドアの向こう」が分からなくなった。「洗面所」というのは経験上分かるが「どんな洗面所」だったのかを忘れたのだ。我が家の洗面所のイメージが浮かばない。こんな体験は初めてだったから、怖くなって風呂場のドアを開けたら、見慣れた洗面所があった。あまりに当たり前すぎて、その時の驚きは記憶に残らない程度の事だった。僕が「洗面所記憶喪失」を何故覚えているかというと、このブログにそれを書いたからだ。

 親しい友にひどく同情されたが、あまりの深刻な表情に「あれは嘘だよ」と答えたら、「ひどいわ」と叱られた。それぐらいちょっとした事だから、「このちょっとした事」は言葉にすると伝わらな。大げさに取られる。だから「嘘」というと「なーんだ」と呆れられる。健常人の頭は「嘘と本当」にくっきり分かれて出来上がっているとつくづく思う。

 冒頭の「お母さんの投稿」も話に戻ると、投稿は「子供が高校拒否不になって困った」という体験が書かれている「お母さんが主観の文章」なのだ。当然、読んでいる僕は「お母さんの思い」を軸に読んでいきますわね。だから「娘は…」となると、「娘のしでかしたこと」、例えば「部屋から出てこなくなった」とか「名前は『愛』です」と、事実の描写になると、読者の僕は先取りする。が「愛犬によってすくわれた」と、唐突に「主観が娘に代わる」から、この主観の変更に僕が戸惑ったと僕は考えた。

 我々は「喋り言葉」では、主語を気にしないで会話する。「出かけたら困ってさ」と喋っても、「困った本人」は自分なのか、第三者なのかは分かる。会話には音やニュアンスがあるから感じ取ることができる。むしろ喋り言葉で「私・あなた」の主語を付けたら固苦しくなる。

 だから投稿のお母さんの文章は「あれでいいのだ」が、新聞は「固苦しい文章」だから、僕は投稿を奇異に感じて読めなくなったのだろう。

 僕はこの「字が読めなくなる」という「脳の故障」で、僕の活字世界が変わるだろうと予感している。小説を書く指導をしている僕は、新しい方法を身に付けねばならなかったのだ。で、僕は体験上「これまでの手法」を捨てないと「新しい発見が出来ない」のを知っている。いうならば、新しい小説の書き方をマスターするのは、素人のWS参加者であり、僕ではない。僕が理解したところで何の役にも立たない。

 というより、自分が「文字が読めなくなる」という状態が面白いのだろう。リハビリのつもりでブログを書いている。読み返すと「何を書いているのか分からない箇所」がいくつもある。「なぜこんな言い回しをしたのだろう」と不思議になるが、多分僕が「文章はこうあらねばならない」と思っているところや、かっこいいと思った熟語を使うと、読み返した時に分からなくなるのだろう。後天的に覚えたものは僕の辞書から消えつつあるあるのだろう。ローマ字はほとんど読めなくなったのが最初の症状。

 僕はブログを書きながら、自分の脳が衰えていくのを記録しているのかもしれない。

 自分の脳梗塞に直面すれば、この欠陥がみんなの役に立つ。僕が言ったところで、強がりにか受け取られないのは分かっていますが、そう思わせてください。

 幸運も不運も向こうからやってくるもので「黒船」のようなものじゃなかろうか。望んで幸福になれるものなら、この世に不幸な人は居なくなるはずだ。そんな考えと体験を重ねて僕は生きて来たんだと、今さらながら思う。

| - | 05:27 | comments(0) | - |
「落語」について

 40歳くらいであろうオギタ君が毎週稽古に来ている。彼は9ヵ月前に脳溢血を起こし、半身不随になっになった。

 不思議な縁で、彼は病院に外出届を出し、入院中から僕の稽古場に来ている。彼が健常者であった頃の暮らし向きを僕は知らないが、障がい者になりたての方と芝居の稽古が出来るのはラッキーと言える。いうならば、ある日突然、体が動かなくなり、歩けなくなった方と知り合える事は滅多にない。

 僕も「ある日突然障がい者になる」という、似たような境遇を体験している。だから自分の病歴というか、体の不自由が精神に及ぼす影響が、オギタ君と稽古することで検討できる。

 僕は「障がい者」と「健常者」は別の生き物という結論に達したが、果たして彼はどうだろう。

 入院中に稽古の通っている頃は、精神は「健常者」のように見えた。思い出してもらう過去の話が、健常者から見える風景なのだ。「バイクを直してやったら喜んで……」とか「女からオーラが匂うんだよ」とか。稽古に来ると、病院に帰るのが消灯時間を過ぎ、婦長から怒られたと嘆いていた。その婦長を演じてもらうと、病院の権威をカサにきた年配女性を造形した。身体障がい者の名優になれると僕らは喜んだものだ。

 が、オギタ君はその後、何もできなくなってしまった。造形する人物に精彩がないのだ。無気力が彼の全体を覆ってしまった。思い返せば、彼が退院して一人暮らしを止め、親と同居したころから無気力が始まった気がする。「最近会った人の話をしてよ」と水を向けても、オギタ君は「誰にも会っていない」と答えるのだ。

 理屈で考えると、病気をするとある時期までは「原状復帰」が当然と思っているのだ。考えるまでもない事だが、我々の病気の体験は「必ず治る」しかないのだ。車のぶつけた跡は、どれだけ時間を掛けても凹みは元に戻らない。自然治癒はあり得ないが、修理工場に出せば、ほぼ原形通りに戻る。だから病院を車の修理工場と考えれば、車が元通りになるよう、体も元に戻ると思いがちだ。「取り返しのつかない事」は「命を落とす事」であり、病気は「元に戻る」と信じているに違いない。半身不随になったオギタ君でも、歩くことぐらい出来ると信じていたのだろう。病気直後に「病気は治る」と思うのも当然だ。

 しかし僕の自分の体験でいうなら、ある日「一生歩けないのか……、マジかよ」ってやつに襲われた。その時が、ショック。座って、窓の外を一日中眺めて過ごしたりする。

「一生歩けない」という思いは、健常者には実感して貰えないのが分かる。だから周りの誰にも話さない。

 だから僕は、オギタ君には「障がい者が感じる世界」を演じてほしいと願っている。が、稽古でどういうテーマを出したらいいか分からない。多分、僕は健常者は「自分には未来があると思っている人たち」としているのだろう。じゃ未来がないと思っている障がい者はどう描けばいいのか? 悲惨に描くと「同情を買う」ような芝居になってしまう。そんなのは真っ平で、「未来がないのに生きている」を謳歌したいのだ。

 そんな事を考えていたら、オギタ君が同居している婆ちゃんが、96歳だと言い張っていたのに、暦で調べたら100歳だったと正月に分かった。そんな話をして一人で笑っていた。

 そんな雑談の場に居合わせた僕は、「これが落語かも」と思いついた。細かい理屈は省くが、落語の主人公は「耄碌した爺さん」が多い。周りに集まる登場人物は「より馬鹿」である。そんな八っつあんや熊さんは爺さんを、より馬鹿にして喜んでいる。「己を馬鹿」と思わずに、周りの馬鹿をダシにして喜んでいるということだ。落語にそんな構図を思いついたということだ。

 僕は落語の良きファンではないから、落語については詳しく知らないが、建築業だった時代、現場が雨で中止になったりすると、時間つぶしに寄席に出かけたりした。客席はガラガラで、僕に似た労務社が客席で新聞を読んでいた。陽気な出囃子に載って怖そうなお爺さんが出てきて、不機嫌そのもので「馬鹿や間抜け」の話を始める。このアンバランスが、僕には面白かった。簡単にいうなら、客がいない客席に向かって喋る落語家に「他人を馬鹿にしないで、自分の心配しろよ」と思ったものだし、そう思うのがおかしかった。

 僕は長年「一人芝居」を上演し続けてきたが、今改めて落語の事を書いてみると「面白くない事で笑わす」という手法は落語が根本かもしれないと思った。観客や登場人物を見下している、落語家自体が哀れなのだ。哀れな落語家が「ノーテンキな馬鹿話」をするところに哀愁があり、おかし見があった。僕は有名な落語家は見たこともないし、ネタも知らない。が、面白くって、時間つぶしに寄席にいた。実に詰まらなかったが、それを良い感じと思ったものだ。

 オギタ君が昨日の稽古で演じたのは、隔日で通っている透析への病院バスの中の話。老人の施設から通うトキさんという婆さんは毎回同じ話を、初めてのように繰り返す。「わたしゃ金沢で育ったから、おやつは蟹だったよ」。オギタ君らしき身体障碍者は「おいしそうですね」と同じ合の手を入れる。それに輪をかけて相槌の上手なのが運転手「贅沢ですね」。「贅沢なもんかい」とトキさんの話が繰り返される。その繰り返しを嘆くのを嘆くオギタ君。

「NPOららら」の「ささやかな稽古」を検索してくだされば、1月8日のページに稽古の様子が載っていますので、見てください。

 

| - | 01:38 | comments(1) | - |
「創作の天才への道」

 僕は生涯かけて、素人と「創作」をしている。プロの俳優や職業作家を超える「創作法」を求め続けたといえる。簡単にいうなら「才能を超える創作法」というのかな。大げさに言うなら「天才になる方法」と言ってもよい。

 12月の末日に、夏場から稽古した「守銭奴」の本番というか、ビデオ収録を行った。その前日の夜中、脳が詰まったのか、頭が痛くなった。脳溢血や脳梗塞を何度も体験している僕は「故障が脳に来た」とすぐに分かった。翌日は喋るのが不都合だし、言葉が出てこない、それに字が読めない。歩いていて何度も転んだから、脳が損傷したのは間違いないだろう。経験上、慌てふためいても仕方がないのはよく知っている。大騒ぎせずに稽古をした。案の定、前日までの稽古とは違って飛躍的に上手くいった。

 パリ在住の「ヨシ笈田さん」を招いてのビデオ収録だったが、相手役のリョウ子が笈田さんを超える演技をしていた。その場にいた作家の山下澄人君が「リョウ子の為に一人芝居を書く」と張り切ったくらいだ。

 僕は「脳の損傷」と、「創作の出来上がりの良さ」が関係あるのを知っている。

 脳溢血で大きな支障を起こしたのは20年くらい前。当時は「桃井かおりとイッセー尾形」の二人芝居を演出していた。病後、桃井さんが「男森田は、どうして急に頭が良くなったの?」と驚かれた。自分でも不思議な事を思いつく。が、「ひらめき」のようなものものだから、自分では意識がない。

 ちょっと褒められた程度にしか思っていない僕は、主治医に冗談半分に「頭が良くなったって言われるんです」と言ったら、主治医はニコリとませず真顔。「補完作用で、脳の別の個所が働きだすってことがあるんです」だって。

 僕の出血個所は左脳だったから、右脳が働きだしたんだろうと勝手に解釈した。左脳をつかさどるのは知性であり、右脳は感覚だからね。創作を商売にする僕には幸いな事と、一人喜んでいた。

 それから「霊感のようなものがわく」から「雄三WS」でも名作が次々と出来た。

 特に身体障がい者である、全盲とか聾唖者が素晴らしい芝居をする。これを読む皆さんは嘘だろうと思うでしょうけど、ホントですよ。本番の舞台を見ればすぐに分かるのだが、「雄三WS」の宣伝はしないから、ほとんど観客はいない。

 笈田さんとリョウ子の芝居で説明すると、笈田さんは世界的に高名な役者であり、ピーターブルックの一番弟子だ。昨年映画館で上映された「世界で一番受けた稽古」はピーターブルックのドキメンタリーで、笈田さんは主要なメンバーだった。方やリョウ子は中華レストランのウエイトレス。膝上まで見えるチャイナ服を着て、週5日、料理を運んでいる。

 ただでさえ気後れするリョウ子は、笈田さんさん演じる守銭奴に取り入って金を借りようとする。通常の考えだと「金を借りる側がへりくだる」と思われがちだが、切羽詰まって無理な借金をする側は強気になる。じゃなきゃ理不尽な借金など申し込めるわけがない。

 簡単にいうと、リョウ子は笈田さんより「強い人」として守銭奴に借金を申し込んだ。

「雄三WS」の、稽古が少ない手法は「強い人」を演じるためだったのです。「自信がないから」こそ、堂々とする。準備すれなばするほど気弱になり、それを覆い隠すためにタカビ―になると、僕は「高学歴」や「頭の良い人」を馬鹿にしているのです。

 この「反努力」という創作法は「脳が壊れたおかげ」で、僕が理解できたことではあるまいか。

 正月にシングルマザーが、中学生の子供の将来を心配していた。子供が「母子暮らしの貧乏を口にする…」と、豊かではない生活を嘆いたて不安そうだった。

 そんなもの「収入」の事を考えて不安にならないシングルマザーなんていない。でもこれは理屈で考えるからだ。将来の現実の生活を「理屈」で測ってはならない。。

 食事もオカズなしで、白米だけで3日も暮らせば、4日目には粗末な惣菜でもおいしく感じるに決まっている。そしてそれは将来「楽しい思い出」となり、母子が生きていく血となり肉になるではないか。それが生きると言う事だ。

「大学に進学させたい」とも言っていたが、貧乏なら寸前に決めればいいではないか。なんかの拍子で「小銭」が溜まっているかもしれないし、子供が「勉強が嫌い」になっているかもしれない。将来どんな状況になるかは、神様でなければ分かるわけがない。

「父親がお母さんを虐待するのを見ていたので、男性が怖くなってしまいました」という女性がいるとしますわな。自分の過去を「物語」という分かりやすい形にすると、その人は「自分の将来」も物語にするに違いない。

 時代の風潮で「物語」が作られるのであって、本人の考えや周りの意思ではないのです。だから「物語は硬直的」であり、変更が効かない。簡単にいうと、物語では「善玉」と「悪玉」が作られる。「良い事」と「悪い事」でもいいが。現実には「善玉」も「悪玉」も存在せず、中途半端なのだ。

 だから、「天才」になるためには、「掴みどころがないのが人間」として捉えればいいのだ。自分が不確かだからこそ「断定する」という考え方ね。そしてその「断定」が、コロコロ変わるの重要なのだ。無責任ともいえるし、調子のいい奴とと思われるかもしれないが、引きこもりで無口であってもいい。要は人間に一貫性を持たせないと言う事だ。真剣になると、より負担が大きくなると受け取ってくださればありがたい。

 創作の天才性を身に付けるためには、芝居では「本番の舞台」に立つことであり、小説なら「新人賞に応募する」ことだ。必ず「不安が襲う」が、「稽古はしていない」から、自分を頼るしかない。この力が「火事場の馬鹿力を生む」と言えるかもしれない。か弱い女性が、火事場でタンスを運び出すようなもので、「ないと思っている馬鹿力」が出る。これが「天才」ってことでしょう。

| - | 20:26 | comments(0) | - |
「自分の感慨は小説には書けない」と僕は思っている

 芝居と小説の大きな違いは、小説には「一人称」である「僕・私」が主体だが、芝居では「主人公」は観客の人が目の前に現れて姿形が見える事だ。どんなに美男美女であっても、肉体や声は生身だから「欠点」は隠せない。肉体が見えない小説では、完璧な人を想像できる。

 芝居では「素敵な言葉」を喋ったところで、役者が不細工だとしたら、客は同調しない。むしろ滑稽に受け取る。小説で「素敵な言葉」で描写したら、良い男や女を想像する。これは逆にいうと、「一人称小説」では、不細工な人物の描写は出来ないと思ってください。一人称小説では、読者は作家本人と主人公を重ねて読むから、作者が「自分を良い男」と思っていると誤読されることも少なくない。「良い気になっている」と思われがちだ。

「一人芝居」を長くやってきた僕は、人間の造形は「ゆがんだ人間」が基本と思っている。役者が「ゆがんだ人間」を創るのはそんなに難しくはないと思っていた。が、演劇教育を受けた人だと「ゆがんだ人間の造形」はできないのだ。タカラヅカの演技法を否定するわけではないが、美男美女を造形する事を「良い演技」となっているらしい。「ゆがんだ人間」は、笑いを取るために喜劇的に演じられることが多い。

 プロの演技者は「ゆがんだ人間」の造形を無理と思った僕は、素人の方と芝居を創るようになった。で、これを全国各地で二十年続けると、素人の方たちは「ゆがんだ人間」に興味があるのが分かった。いうならば公式の場所では「礼儀正しい笑顔の仮面」をかぶり、くつろぐときには「仮面を脱ぐ」ということだ。オシャレな方の自室のようなものといえる。外では綺麗だが、内では自堕落という事ね。だから「雄三WS」では、「演技」とは「リラックスする」ということになる。だから出来ない人はいないから、出演したい人を全員舞台に出す。「炬燵でミカンを食べるようにすれば、誰でも舞台に立てる」というのが、当初の宣伝文句であり、今も変わっていない。

 だからこれを小説に応用して、「誰でも小説が書ける」と、「体文学(からだぶんがく)WS」を10年ぐらい続けた。

 これは挫折したのだが、参加者の素人が書けば書くほど「自分が才能のある人」と思い込んでしまうのだ。出版社から自作が単行本になったりするとすると「自分が特別だから本が出版された」となる。逆にいうなら「出版されない」と「自分には才能がない」となる。

「誰でも書ける」と始めたWSが、才能の選別の手段になったということだ。「才能がある」ともてはやされるのが嬉しいのは分かるが、そこまで「我を失うのか」と絶望した。芝居は終われば何も残らないが、小説は活字となって残るから「才能がある」と「自分は特別」が尾を引くんだろうな。

 演劇や文学は金持ち子弟の遊びだったのだ。「金持ち階級の人」が行う事だったのだ。太宰治は大地主の息子であり「働きたくない」と絶えず思っていた。いうならば「実家からの仕送り」が途絶えるたびに、女と自殺未遂を繰り返している。

 中原中也は、開業医である実家の仕送りで、結婚後もお手伝いを雇っているが、働いてはいない。

 この人たちが、日本の演劇や文学の創始者であるから、文学のテーマは「働かなくての悩む」になっている。「こんなに才能がある自分」が、なぜあくせく働かなきゃならんのか、ということね。

 石川啄木の詩「はたらけど、はたらけど猶わが生活楽にならざり、ぢっと手を見る」がいい例だろう。

「自分だけが苦しい」と読み取れる。自分だけが特別という視点に立っているから「みんなそうだよ」とはならない。これが一人称文学と僕は思っている。

 小説は「私・僕」といった、一人称で書かねばならない。それ以外の書き方でも「自分ひとり」で書く。だから「自分は特別」という意識から抜け出せない。これが小説の枠組みであって、それを突き抜ける以外にない。

 今、神戸WSのタエシマ君が小説を送ってきている。彼は一人称で書きながら「一人称」を超える題材で書いている。

「終電で寝過ごして、終着駅まで行き、始発まで時間をつぶすサラリーマン」の話だ。これがたまになら事件だが、彼の物語では週に二度も三度も寝過ごす。それが何年も続いているとしたら、主人公には日常なのだ。何故そんな事をするのか反省したって仕方がない。そんな現実を送っている人を書こうとしているのだ。意味のない時間を明け方までファミレスやベンチで過ごす。

 この主人公から見たファミレスの風景は「いつもの感じ」とは違うだろう。「ここはどこだ?」と思うだろうが、この驚きにも慣れっこになっている。簡単にいうと「すぐにはファミレス」だとは分からない描写であるが、お決まりのファミレスの内装でなければならない。

 石田さんが書いているのは、「愛している」と思い込んでいる義理の兄だ死に、そうになった時「逢いに行かない」話だ。この石田さんの小説の登場人物は、誰しも「愛しているのに、イザとなると衝動的に離れる」のだ。そこに理由はないが、小説だから理由らしきものは書かれている。が、登場人物の誰しもがそうなら、全員が「個人的な想いは裏腹」なのだ。「逢いたい」と思っているのも本心ならば、「逢いに行かない」というのも事実なのだ。

 松尾君の小説は、巨大な市立駐車場の駐車スペースの白線を塗りなおすペンキ屋の話だ。無口な先輩職人と、炎天下の真夏、黙々と白線を塗り続ける。個人の思いが入る余地はない。

 こんな小説を書いたところで、本人たちは「売れる」とは思っていないだろうが、石田さんのが新人賞の最終選考にまで残った。松尾君は大阪市バスの運転手だが、同僚はおろか、上司や会社の幹部まで松尾君の小説に好意を示してくれている。毎日、同じ労働を繰り返す働きアリのような労働者にとっては「自分のことが書かれている」のが、嬉しかったのではあるまいか。

 小説や芝居は、のっぺりした日常と戦う為には、有効な「時間の使い方」と僕は信じている。

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山下澄人君の小説「しんせかい」が芥川賞の最終候補になりました。

 山下澄人君の小説が芥川賞の候補になった。文学に興味のない方には「芥川賞」と言ったって何のことか分からないでしょう。だから「芥川賞」をとると、NHKの紅白歌合戦の審査員になる事だと大ほらを吹いています。昨年、芥川賞をとった又吉直樹氏が紅白の審査員になったからね。

 こんな風に世間的にもてはやされることとは別に、山下澄人君は昔の知り合いで、僕のところに芝居の稽古に来ていた。その知り合いが「大きな賞」で評価されるのも嬉しいが、最終候補に残っただけでも快挙だ。だって、僕のところに芝居の稽古に来ている人たちは、小説を書いて様々な賞に応募している。が、最終選考に残ることなどほとんどない。ましてや単行本となって商業出版されたことは、過去二度あっただけだ。

 僕は「創作をする事」は生きる喜びと信じている。金にはならないし、辛い現実が変わるわけではない。が、「創作」によって「辛い現実」が小説や芝居の材料になり、パッピーになることも起こった。これ本当の話。

 現役の中学校教師が我々の芝居創りに参加してくださっている。その中のベテランの先生の体験談。保護者の苦情が大流行だった時代に「モンスターピアレント」を芝居に取り上げた。現実に苦情を持ち込まれると辛いよね。その稽古をしている時期に、保護者が職員室に苦情を言いに現れたのだ。相当に怒っているらしく、他の教師たちは職員室から出て行くのだが、その先生、「保護者の苦情」は「雄三WS」の稽古に使えるかもしれないと、怒っている保護者の前に進み出て「お話をお伺いしましょう」とやったそうだ。「雄三さん、怒りってすぐに消えるんですね」というのが、その先生の感想だった。「あなたは良い教師だ。うちの娘の担任なって欲しい」と、上機嫌で帰って行ったそうだ。

 面倒くさい事や敬遠したくなる現実のトラブルに興味を持つという力が創作にはあるのではないかと思う。

 こんな「創作の力」を信じている僕は、我々の力で出版社を作り、参加者が書いた小説や文章を本の形にしている。儲けはないが「友情買い」と称して、知り合いに買ってもらっている。

 そんな中の一人である松尾忠君が、バス運転手の話を書いた。松尾君も制服制帽で白手袋をした大阪市バス運転手だ。同じ路線を毎日何回も走り、「発射します」「停車します」を繰り返している。ストレスが溜まらないわけがない。喫煙所がある運転手控室で見聞きしたことを松尾君は小説にまとめ、それを我々が出版した。驚くことにその本を喜んだのは同僚たちで、自分の人生が「活字になって取り上げられたこと」に喜んでいたのだ。離婚して女房子供に出て行かれ、初老の一人暮らしの男が末期癌となった。その同僚の事を書いたら、その同僚は病院のベットで泣かんばかりに喜んでいたとか。

 松尾君は「優しい言葉」とか「励ます」のが苦手なタイプだが、「創作したもの」で同僚たちが「日常に喜びを見出す」のを目の当たりにして嬉しかったのだと思う。これが創作であり、そんな事より前に「伝えること」が「生きる喜びの元」だと思う。作者の「想像」が、読んだ側にも伝わるって、ともに喜びあえるんじゃないかな。

 松尾君はその後、何冊も書いて大手出版社の新人賞に応募しているが、すべて予選で落ちている。カスリもしなかったというやつだ。

 石田香織さんは、最終選考まで残ったが賞は取れなかった。が、こんなに嬉しい事はなかった。選考委員の感想が商業雑誌に実名入りで載せられたからだ。一般人にとって、実名がマスコミに載ることは滅多にない。石田さんはことに不登校児だったから、僕も嬉しいが本人はもっと嬉しいだろう。例の僕の大ホラは「この作品は映画化される」と皆にふれ回っていた。受賞の発表の前しか浮かれ騒ぐことはできない。石田さんに「受賞記念の挨拶」をして貰ったりして、先に記念パーテ―をやった。他人から見れば「ぬか喜びの身内騒ぎ」に過ぎないが、僕には石田さんが最終選考に残ったことが嬉しいのだ。受賞しての「大喜び」は「賞が目的」となりかねないが、こんな僕や周りの者には「陽の目を見ることなぞない」と思っているから「ぬか喜び」や「計画だけのうれしさ」しかない、と思っている。現実に石田さんが賞を逃した時には「腹が立つ」し「不機嫌になる」のだが、これが石田さん本人だと「品がない」となる。実力がないくせに、審査員を恨んでとなるからだ。

 不思議なもので、山下君が芥川賞の候補でなければ、僕は芥川賞なんてほとんど興味を持たないだろう。が、山下君とは知り合いだから、何回もこのブログに山下君の事を書く。それは面白いからだ。と言うよりそんなものを通り越して、血沸き肉躍るからだろう。そして「血沸き肉躍る」のが「喜びの根源」と僕は信じている。

 こう書くと「阪神タイガーズ」の応援と同じようなものであり、それは否定しないが、僕の場合は「血沸き肉躍る」のが「創作」という狭い範囲の物ということかな。いうならば「オタク」と言えるかもしれない。僕としては自分を「オタク」とは思っていないから、マスコミに取り上げられるのが嬉しいのだろう。

 だから山下澄人君の作品をみんなに読んでほしいと、しつこく書いているのだろう。読めば「僕の思い入れ」が分かってくれるというか、逆に「馬鹿な思い入れ」が分かるだろう。

「創作」は砂糖菓子ではないから、その場で「美味しさ」は分からないかもしれないが、思い出すごとにその噛みしめた味が蘇える。近親者の死をその時には何とも思わなくても、涙すらこぼれなくとも、ある瞬間にボウダの涙が止まらなくなるものではなかろうか。古いソフト帽からポマードの匂いがして、思わず涙が流れた。父親の死から何年も経っていたが、亡き父を思い出した瞬間であり、父を愛おしく思っていた自分に気が付いてホッとした。

 山下君の小説には「瞬間」が書かれていて、だから読者の僕は自分の人生の様々を思い出すことができる。

 山下澄人君の芥川受賞を心から望んでいるが、落ちた時のガッカリも予想している自分もいる。

| - | 16:07 | comments(0) | - |
台本のある稽古について

 僕の芝居創りは、戯曲(台本)を離れて即興で創っている。役者が自分の喋る台詞を自身で発見する方法だ。今でこそ、素人劇団でもやっている手法だが、僕が若かったころには皆無の創り方だ。まず「一人芝居」の台本がなかった。

「一人芝居らしきもの」は、コクトーの「声」で、女が一人部屋にいて、失恋の辛さに次々に電話して、最後には自殺するものだった。だから既成のドラマツルギーだけど、登場人物が一人という形だ。

 三島由紀夫の「船の挨拶」は、港の船舶の見張り所で、終日、海を眺めて暮らしている監視人の話。多分、作者が俳優の一人に惚れこんで戯曲を書いたに違いない。波の音と潮風、陽光と言う健康そのもの環境で、一人で過ごすという設定だったと思う。内面は寂しいのに、環境が本人を落ち込ませないという孤独かな。

 役者が自分で自身の台詞を創るのと、戯曲を元にして芝居を創るのとでは、手法が全く違う。役者本人が自信を無くしたら、目も当てられない芝居となってしまう。多くのアマチア劇団がそうで、見ていて痛々しい。根っこに学校演劇があるのだろう。プロの真似をしているというか、「よく頑張っている」という褒め言葉しかなくなる。

 今我々は、モリエールの守銭奴の稽古をしているから、「台本がある稽古」をしている。僕には20歳ころにやった稽古の手法だから、懐かしいというか、回顧にふける。下手な役者だった僕は、一行の台詞で一カ月の稽古を強いられた。「誰だ、そこに居るのは?! あっ、殿下…」と言うのが台詞のすべて。ハムレットを発見する衛兵の役だったが、胃潰瘍になってしまった。いまだに胃カメラを呑むと「潰瘍の跡が残っています」と検査医に言われるから、トラウマの跡が、心ではなく、胃に残っているということだ。

 そんなことがあってか、既成の演劇の手法から離れようと思ったのだ。でも役者志望の人たちは、自己嫌悪を抱えるようなものを、言うならば、台詞の言い方を芝居の稽古だと思っている。

 ただただ、書かれた台詞を読めば良いのだが、役者の職業としては物足りなく感じるのだろう。なにせ稽古時間は長いからね。そこで役者たちは「言い回しの工夫」をする。怒っても言えるし、笑っても言える、悲しんでも言える、というやつね。感情表現を演技と思いこむからね。で、その喜怒哀楽のどれを選ぶかが、頭脳プレーである。「解釈」というやつね。昔の新劇の役者は、酒を飲んでは議論を戦わしていた。要は「解釈」を言い合っていたのだ。

 僕もそんな役者の一人だったから、ハムレットを発見する衛兵の「誰だそこに居るのは? あっ、殿下」の台本に、驚愕・警戒・安心・不信感などという言葉を書きこんでいた。「解釈」をしていたってことだ。馬鹿みたいでしょう。

 だから役者のDNAの中には「解釈」の名残である「頭でっかち」の癖が抜けないのだ。

 恩師である大橋さんの稽古を見ていたら、シーンの説明と、キャラクターの指示をするのだが、役者たちは台本を見たとたんに、コチコチになってしまう。余裕をなくして「言い方の稽古」に嵌まってしまう。大橋さんは良い方の指示をしているのではないのだが、ついつい既成の方法と勘違いする。

 キャラクターというのは、僕の解釈で言うと「自分以外の人間」で、立ち振る舞いや、喋り方をすると言う事だ。我々は他人と接して暮らしているのだから、出来ないわけはないのだが、台本を見たとたんに「乱暴な人」とか「優しい人」といった記号が先に来てしまう。現実には「優しい人」も「乱暴な人」の一辺倒もいないのだが、テレビドラマには続々と登場する。だから「テレビドラマの真似」を演技だと思ってしまう。

 シュチエーションというのは「人間関係のあり方」で、仮に恋愛しているなら、「恋愛独特の声」を出すのだ。我々は、本人が「何気なく喋って」も、その声を聴いただけで「恋している」のが分かる。そのように人間は出来ているのだ。

「金を借りる場合」も同じで、人は「借金を言い出す前」に、その人の態度から「頼み事だな」と察しが付く。

 これが分からないと「空気が読めない」となる。空気が読めない人を我々は嫌うわけではなく、遠巻きにして近づかない。そして記憶に残らないようにする。

 僕は電話に出ないから、スタッフの「もしもし」という声だけを聴きながら事務所にいる。この「もしもし」だけで、相手が誰かを想像する。そしてそれは「取引先」か「同じスタッフ」か「セールス」かの判別が外れることがない。だが新しく入ったスタッフや、電話応対のマニアルを仕込まれたアルバイトだと、相手が誰か分からない。「空気が読めない人」も相手が分からない。「空気が読めない」というのは「頭でっかち」と受け取ってくださって結構です。台本を読むと、たいていの人は「頭でっかち」になってしまう。だから「素人役者」のようになってしまう。「自信がない」「緊張する」「アガル」「どうせ駄目だろう」のスパイラルに取り込まれてしまう。

 即興劇の稽古は、台本がないから、すべて自分で差配しなければならない。それに対して台本のある稽古では、戯曲のパートのピースの役割を担う。いうならば「自営業」と「大手企業の社員」の違いがあるのだ。即興と言う芝居の組み立てで、好き勝手やっていた役者が、台本がある既成の演劇は「大手企業」の仕事の仕方に似ていると感じるだろう。

 「台本がある・ない」は、芝居の仕方に大きな隔たりがある。この違いさえ理解すれば、そんなにこの壁の隔たりは難しくない。

 大手企業の会議を見学すればすぐに分かる事だが、零細企業の会議とさして変わらない。ほとんど「ぶっちゃけ話」のような喋り方をしている。が、これをテレビドラマで見ると、雰囲気はものすごく違う。江戸時代の殿様の前で意見を言うような雰囲気を漂わせるのが「大手企業の会議」と、テレビドラマはしている。あれは現実じゃなく、嘘なのです。嘘に牛耳られたら、「芝居を創る」という創作行為も堅苦しくなってしまう。

 そんな稽古で、胃潰瘍になり、いまだに傷跡が残っている僕が感じるのだから間違いない。台本がある稽古を苦手と思う人も、自分で工夫するのが大事なのです。

 

| - | 21:05 | comments(0) | - |
「山下澄人君と保坂和志さんの対談」

 僕は将棋は強くないが好きだ。金沢のアトリエに行っている時は、専用チャンネルで、四六時中、将棋の勝負番組を見ていた。たまたま知り合った方がプロの将棋指しで、彼が言うには実力の世界だから「番狂わせ」はありませんとのこと。「自分は十両と幕内を行ったり来たりの実力」だから、羽生さんや谷川さんは雲の上の人で対戦することなどありえない、と言っていた。

 東京で将棋の番組を見ないのは、周りの人が「将棋を詰まらん」と思っているのが分かるからだ。テレビを見ているこっちも散漫になる。興味のない人には、あんな詰まらないテレビ番組はないだろう。対局者は座ったままで喋ることもないし、序盤などは解説者もコメントのしようがない。「10秒……5秒、4,3,2……」と立会人の眠そうな声が入るだけだ。

 が、僕は何も言わないで、ほとんど動かない対局者を見るのが好きだ。猛然と脳内が働いているのだが、形になって現れない。

 将棋の名人の羽生善治と村山聖を主人公にした映画を映画館にまで見に行った。将棋の対局の場面を、どうやって役者が演じるか興味があったのだ。というより、将棋の対局が映画になりうるのか、と言う事もあった。

 とても二人の役者はよくやっていて、対局の場面の緊張感はよく出ていた。頭の中の葛藤を演じる役者が出現したと言う事だろう。見事というしかない。

「一人芝居」を、生涯、追及したといえる僕の演劇活動では、将棋の対局のようなもので、「役者の存在感」だけが問題なのだ。

 分かりやすく言うと「一人芝居」だから、架空の相手が喋っている局面もたくさんある。その時の演者のリアクションによって、相手が何を言っているかを観客が分かるようにしなければならない。仮空の相手の話を「うんうん」と相槌を打てば、聞いていないことになる。お付き合いで対面している場面と観客は受け取る。真剣な話とはならないのだ。将棋の対局の場面で「相手の差し手」に、いちいち反応するようなものでプロの将棋中継ではありえない。むしろ絶えず無表情だ。

 役者という商売の秘訣というか、根底の難しさは「人前で見られていないよう」にすると言う事だ。訓練をしないと「他人の目線に緊張する」のだ。この訓練というのが「見られていないのを装う」のが演劇界の常識となっている。

 ニュース番組の政治家と、劇映画で演じられる政治家の隔たりを見ればすぐに分かるだろう。劇映画の政治家は嘘々しいのだ。簡単にいうなら現実の政治家は「頭の中はいろんなことを考えている」のに対して、俳優の演技は「頭の中は空っぽ」なのだ。だから視聴者の我々は「政治家の振り」だとすぐに分かる。

 だから「一人芝居」の基本は「頭が空っぽ」の人を取り上げる。本当に「頭が空っぽ」じゃないにしても、「頭が空っぽ」に見えるように演じるのが基本ということだ。「頭が空っぽ」の言葉を言い換えると「退屈している」と言えるかもしれない。

 これが現代劇と僕は思っている。僕が扱う「一人芝居」と、世で言われる「一人芝居」とはまるで考え方が逆なのだ。世の一人芝居は、女優さんが好むようだが「偉人の生涯」が取り上げられたりする。

 この「頭が空っぽ」、「退屈している」を小説で扱っているのが、山下澄人君だ。彼の最新作は「しんせかい」で、この小説を題材にして小説家保坂和志さんと対談している。「新潮一月号」です。二人の対談は、既成の小説とは違う視点で書かれているが話の中心になっている。僕流の捻じ曲げた解釈で言うなら「退屈な世界から見える風景や人」であって、一つに向かって突き進むような、これまでの小説ではないということだ。

 この保坂さんと言う方は、「猫と遊ぶ」のを何十ページに渡って書いている小説がある。「創作」に携わればすぐに分かる事だが、無意味な事を延々と描くのは至難の業なのだ。読者の、小説には「人生の為になるものがある」の思いに冷や水を掛けるどころか、巴投げにして「あなたは何を読み取ろうとしているのか」と、切っ先を読者の側に突き付けてくる。創作における革命者として僕は過大かもしれないが評価している。

 保坂さんは、山下君が「ブルース・リー」が好きだったのが分からなかったと言っている。それに対して山下君が「ブルース・リーは、アクション俳優と思われているけど、本質的には武術を通した思想家なのです。彼にとっては、映画は手段に過ぎなくて、自分の動きそのものを見せたいがために映画を作っているから、主眼を置くのはアクションシーンだけで、筋はどうでも良いものだったんです」と言っている。

 僕はこの「ブルース・リー」の話で、将棋の映画「聖の青春」を思い出したのです。あの映画の筋には重きが置かれてないのです。

 僕が神戸で長く続けている現役の教師たちとの芝居も、「教師たちが抱えている日常」こそが、「プロの将棋指しの頭の中」であり、「ブルース・リーの武術」と僕は考えている。芝居に出る「教師たち」は筋はどうでも良いから、「教師の日常」を克明に演じることができる。

 これは一般の素人方にも言えることで、主婦の方が台所で料理をしながら、夫との諍いを演じてくれたが、彼女にとって大事なのは料理なのだ。手際よく「冷やし中華」を作っていた。冷蔵庫から焼き豚を出し、薄く切り、中華の上に乗せ、紅ショウガを添えた。むろん料理はパントマイムだが、毎日の事だから、体が、手先が覚えている。彼女が主婦として、毎日手料理を大事にしていたのが分かる。夫との争いなんて、食事が終わればどうでもよくなっているだろうことが伺えた。誰しもが持っている「自分のプロ」の部分は意識できないし、取るに足らぬこと思っていることが多いのじゃないかな。

 このブログを読んだ皆さま、これも縁ですので、「新潮1月号」を買って、山下君の対談を読んでください。930円です。

 

| - | 16:45 | comments(0) | - |
「人をお金で換算する癖」

 20年も使っている事務所用のエアコンを量販店に買いに行ったスタッフが、同じ型番の2年前の中古品を、その場でスマホで調べたら、3分の一の値段だったとか。買わずに帰ってきた。事務所の皆で得した気分になった。むろん僕も喜んだ。

 いうならば「値段が安い事は良い事」が当り前になったのだ。それはそれで結構な事だが、「同じ製品の高いものを買う」と、損をしたを通り越して「馬鹿にされた」となる。というより、「高いものを買わされた」という鬱憤はあっても、他人には言わないことが多い。だから「損した」という感覚は、思いのほか人間の根底を揺るがすのじゃなかろうか。「馬鹿にされた」という被害妄想を上回る「自己嫌悪」にまで繋がるのだ。自分の存在を揺るがすまでになる。

 だから現代人は「ケチ」になったというより、「損をした」と他人に軽蔑されまいとなる。かっこよく言うなら「お金の有効な使い方」を知っている人と、知らない人に我々は区分けされ、何が何でも「有効に使う人」の側に回ろうとする。

 僕らの時代は「教養」というか「勉強」が、仲間内では価値があり、「勉強が上位になる」ように子供たちは努力したというか、させられた。「受験地獄」というのがそれね。「自分のために勉強する」とか「勉強は面白い」と良識ある人は言うが、僕はそんな事は信じなかった。それでも学校に行かない子というのは考えられなかったのだ。良い学校に入るのがその人の価値だったといえた。僕が育った地方では「高校」でその人の「値打ち」が決まり、一生「○○高校卒」というのが、その地に住む限り付きまとった。

 我々の能力は「外側から決められる」のだ。良いにつけ悪いにつけ、思春期が過ぎた時期に「世間が決めた枠組み」を受け入れざるを得なかった。これが「分相応」というやつね。

 韓国の激しい名門校への入学の欲望も、日本人には「給与が高い会社に入れる」との報道一辺倒だが、それ以外にもメリットがあるに決まっている。日本人が失ったメリットというのが「名門」の「家柄」という奴だろう。「貴族社会」というか「一流の集まり」という幻想があるのだろう。「望む結婚が出来る」「何となく一目が置かれる」「上品である」などなどだのメリットがあるのだろう。

 詳しくは知らないがクレジットカードで「ブラックカード」というのがあるらしい。それを持っている人が僕に見せてくれた。自家用ジェットを持っているぐらい大金持ちだから、そんなカードを持たずとも、服装や持ち物、自家用車で裕福だと分かるから「水戸黄門の印籠のような持たなくてもいいじゃないですか」と僕はからかった。「雄三さんは知らないだろうけど、これを見せると店員の目の色が変わる」んだって。

 なるほどと僕が分かったのは、僕が「ブラックカード」についての知識が皆無だから、見せびらかして自慢したかったのだ。

 いうならば「金持ち」は、それでそれはステイタスなのだが、金持ちがバレルと妬みを買う。というか、奢らねばならなくなる。だから「金持ち」は示したいが、「金持ち」を見せびらかしたくないのだろう。

 こんな話はどうでもいいが、子供たちは「買い物上手」を競い合っているのが分かる。泊りがけで来ている学童の子にせがまれて、コンビニに行くと「小遣いをたくさん持っている子」と「まったく持っていない子」に分かれる。「小遣いを持たない子」はコンビニに来なければいいのに付いてくる。あまりの買い物の大量さに清子は「買い食い禁止」としたが、シングルの子供は「小遣いをたくさん持って」おり、両親がそろった勤め人の子供は現金を持ち歩いたりしない。高学年とはいえ小学生だからね。

 子供たちの買い物の後の「お菓子の分配」は知らないが、最初はみんなに分けていたが、分け与えるのを見た新しい子は、当然のように貰うようになる。上げる子供はだんだん不愉快になるのも分かろうというものだ。今の時代、小学生のうちから「金持ちと貧乏」で苦労するのだと思う。

 社会人になってか、「収入が多い、少ない」で苦労するのだから、子供のうちから「小遣いの格差で苦労する」のもイケない事ばかりじゃないだろうと、僕は思っている。

 この金のことが「イジメ」に繋がり「カツアゲ」に繋がるのだろう。ゲームセンターで「遊ぶ金」なんて、親が出してくれるわけがない。「お年玉」なんて長い間あるわけがない。そして都会ではゲームセンターだらけだ。

 冒頭に書いた「有効な金の使い方」がここまで当然となると、「金の使い方」を判断するのは「自分」となる。ものを買う場合は「買わなければいい」だけだが、教師の価値を認めるのも子供たち自身となる。「詰まらない教師」と、生徒や児童が判断するのは致し方がない。これは学級崩壊に繋がるだろう。この学級崩壊も一筋縄ではいかないのは「価値ある教師」には従順なのだ。学校現場や教師仲間は「教師の実力のランク」があるのは百も承知だろうが、教師たちは言葉にすることはない。多分、「実力なんて取り上げたってしょうがない」のだろう。

 昨日、楽ちん道に来ていた勤め人の人が言っていたが、働いている部下が「上司を査定」するんだって。「価値がないと思う上司」には、部下が返事をしないそうだ。僕はそもありなんと思う。そんなピリピリした職場で長時間過ごすのは嫌だよね。防御策として働く人たちも、上司も「何事もなかった如く」過ごすのが身についてしまったのだろう。取るに足らんことで大騒ぎするな、となって当然だ。

 僕は古い人間だから、「思ったことを言え」とやるのだが、命令形は入り口で蓋をされる。「職場での嫌な人」をやってください、だと勤め人は見事に演じられる。意識の底に眠っているような人だと、火が付いたらイメージは止まらなくなる。

 僕は革命家ではなく、芝居の仕事だから、辛い現実の変革を望んでいるのではなく、「人をお金に換算する」を意識して、芝居という稽古で「職場の垢」を水洗いすれば、車の両輪となり現実を清々しく生きていけるのじゃないかと思っている。精神を壊すより、芝居の稽古をしようってことです。

| - | 07:10 | comments(1) | - |
+ イッセー尾形オフィシャルブログ
+ 森田雄三プロフィール
1946年・・・石川県白山市に生まれる。 2006年・・・兵庫県高砂市の教師とワークショップで芝居を作る。 スイス国立演劇学校(HMT)の教授となる。           ワークショップに関する本が何冊も出版される。           ワークショップに参加した人達、通称:「森田雄三チルドレン」が、ソーシャルネットワーキングサイト「mixi」(ミクシィ)でも多数存在し、ワークショップでの出来事・森田が話した内容「雄三トーク集」なるコメントがされている。 イッセー尾形の演出家。
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