イッセー尾形の字の部分 演出家森田雄三 語録ブログ
森田雄三語録ブログ
「演劇は愛」と書こうと思う

「富山WS」の事がフェイスブックに書かれている。どうやら「全盲の障がい者とボランテアの若者」が人気らしい。「泣いた」「感動した」との女性や、玉田先生は「雄三の仕事のベストワン」と書いている。

 謙遜するつもりはないが、あのシーンを創る時に「神が降りてきた」のが分かったんですね。これをそのまま書いたら「雄三が狂信者」となってしまう。だから「雄三が困った体験」を書こうと思う。

 盲目のYさんと、名前を覚えてない青年の組み合わせは、本番の寸前に決まったと思う。Yさんは前日休んでいたから、指して気に留めていなかったし、青年は来ないものと思い込んでいた。「これで稽古は終わり」と宣言して、僕は舞台裏でタバコを喫っていたと思う。朝の十時からの稽古で、本番は2時から。

 誰が呼びに来たのか覚えていないが、僕は稽古をするつもりがなかった。ほとんど人がいない「本番の舞台」にYさんと青年に上がってもらうが、「詰まんねーこと言うなよ」という程度のことしか喋らない。いつも使うのが「困った時の車椅子」ってことで、に盲目のYさんに座って貰い、青年に車椅子の後ろに立ってもらった。

「ほら喋れ!」とやると、Yさんが喋りだした。青年は「非常口はあっちです」という、説明的な事しか言わない。

 何とかシーンにしなければならないと、僕が焦りだしたんだろう。突然、Yさんが「昔、俺は空を飛べたんだ」と言い出した。この一言で「僕は創れる」と思うんですね。

 ここの説明は難しいが、このYさんはとてつもなくリアリストなのだ。「目が見えなくなって困ったことは?」の答えが「車の運転が出来なくなった」と答えるんだもの。「自分が全盲になった事」を特殊とは思っていないのだ。

 一方の青年は、上半身を揺らしながら突っ立っているだけ。多分渡り歩いたバイトの数は半端じゃないのだろう。親がそこそこ裕福で、顔形やスタイルもそこそこいいし、音楽か芝居をやってそこそこ満足しているのだろう。今時の若者の典型。そのまま30代半ばになった感じ。眼の前に車椅子があるのだから何か演技をすればいいのにと思うが、「雄三に怒鳴られる」のが怖いのだろう。

 親に小遣いを貰う為の言い訳でボランテアをやっている青年と、一人で生きていく覚悟をしている盲人。

 この二人は相手に心を許す事もなければ、どこに出かけても孤独なのだ。盲人は「心を許すまいと決心している」し、青年は「自己嫌悪ではち切れんばかり」と客席から読み取れる。

 そんな風に僕はこの二人が見えたんですね。他人からは、立ち往生している視覚障碍者と、無気力な演劇青年に見えたと思う。僕はこの時に「神の恩恵」を感じたんですけど、皆さんには分からないと思う。「孤独の極致」の二人を、この時間に、この舞台に立たせている、っていうのかな。舞台に立っている二人の実感から程遠いのだが、観客は「孤独の痛々しさ」を嫌というほど感じるに違いない。

 シーンの大枠さえできれば、演出は手慣れたものだ。青年が「携帯電話を見ていいですか?」と聞くが、盲目者には聞こえない。再度青年が「携帯電話を見ていいですか!」と叫ぶ。明らかに暴力性というか、殺意が込められている。

 しばしの二人の沈黙の後、盲目者が首を回して、青年の顔を見上げる。客は全盲なのが分かる。うつむいているだけの青年が、うっ積を溜めているのは、誰しも分かる。正面を向いた盲目者は「自分がしているバイト」の話をする。たまたまYさんはコールセンターで働いていて、電話でセールスをしていたのだ。明るく元気に健康食品を客に勧める。コールセンターに全盲の人が働いているとは思わないよね。「健康が幸福の元ですから」と屈託のない声を上げる。青年は自分のアルバイトである「ガソリンスタンド」の店員を演じる。「ありがとうございました」と上半身を90度に折る。

 二人はアルバイトで暮らさねばならない現実に、舞台上で立つということなのだ。「蔑まれる暮らしをするしかない」という共通地盤を、舞台だから認められるのだ。全盲の人が目が見えるようにはならないと観客は分かるから、青年にも「望むような前途がない」と分かるのかも。

 次に盲目者が歌を唄いだす。これもたまたまなのだが、Yさんは「カラオケ」で唄うような唄い方をしたのだ。現実で目が見えなくなったYさんは、カラオケだけが慰めだったのかもしれない。それも「一人カラオケ」で堂々と唄うから・・・悲しい。それに付き合って青年も唄いだしたのだ「上を向いて歩こう」だったから、二人のちぐはぐさが際立つ。青年はクラスの人気者であり、家族の中では「良い子」だったのだろう。そんな選曲だった。この曲も彼らが稽古で咄嗟に唄ったものだ。Yさんも、自分に希望があった時代の「上を向いて歩こう」を口ずさむ。

 二人は意図しないで「心の交流」をしている姿なのだが、そして数分後にはYさんは「動じない自分」に、青年は「自己嫌悪」へと「一人相撲」に戻るだろう。

 ああー、神様は「こんな風な救い」を投げかけてくださっているのだなぁー、と僕は思う。人間には「実感できない愛」というのかな。

 僕はそう思いましたが、人間は言葉にできないのが「愛」なのかもしれない。

 

| - | 03:43 | comments(1) | - |
「富山WS」を終え、間もなく「神戸WS」

 富山WSを終えた。写真家のチカちゃんが今回も写真を撮ってくれて、参加者が一瞬の内に、別人の表情になるのが面白いという。彼女は10年前の新潟WSから写真を撮ってくれているから、長い付き合いになるのだが、僕はほとんど口を利いたことがない。典型的な「雄三WS」の付き合いだ。いうなら、殆ど僕は「WSの参加者」とは私語を交わさないという事だろう。いうなら、「雄三に話し掛けると怒られる」と皆は思っているのかもしれない。というより、参加者が「自分の事」を話すと、休憩後のWSでは、僕が吹聴するから、皆の知るところとなる。それを嫌うのだろう。

 雄三個人の性格の問題というより、「個人の想いや不満・満足・愚痴」などは「たかが知れている」と僕は思っているからだ。今度富山に全盲の参加者が居たが、全盲の人にとっては「目が見えない事」は日常なのだ。多少の暮らしの不都合はあるかもしれないが、その程度の事だ。全盲の方と知り合いになる機会は、普通の参加者には滅多にない事だ。だから、何が不都合で、何が不便かを知るのは、出会いとして意義があるだろう。だから僕は、全盲の方に質問もするし、舞台にも立ってもらう。僕も障がい者だが、障がい者になって困るのは、「障がい者の一般枠」で話し掛けられることだ。その人にとっては「雄三個人」はどこにもない。親切な優しげな声を甘んじて受け入れなければならないということだ。これが道路や公共の乗り物ならば、優し気な声の方を「親切な方」として受け入れるのはやぶさかではないが、「創作の場」では困るのだ。

 物を作るのは、参加者の固有性を見つけねばならないということだ。固有性と書くと「個性」のようで、口当たりは良いが、実は「その人の歪み」なんですね。もっというと「心の障がい度」といえる。あなた「頭おかしいよ」のような言い方をする。

 厚化粧の婆さんに「お綺麗ですね」というか、「魔女のようですね」の問題なのだ。「あなたは魔女のような人」を受け入れろ、と言っているのではなく、森田雄三という個人が「魔女のように見える」と言ったという事実を認めろ、と言う事だ。それと重要なのは、参加者の不特定多数が「その場」にいて、雄三の社会常識に反する言葉を耳にした。という事なんですね。「雄三は酷い事を言う」「よく言ってくれた」などなどの、個人的な感慨を参加者がそれぞれに持つ。必ずこの感想のようなものは「自分が言われたらどうしよう」という不安につながる。この不安を皆に喚起させないと、僕の言葉は「単なるイジメ」になってしまう。

 途中から入ってきたマスコミ関係者は、「あんなに酷く叱責されるのに、皆さん何で参加するんですか?」と質問されるのは一度や二度ではない。部外者からはそう見えるのであり、今の「障がい者に親切に」の風潮からすると、僕は「悪」だろう。幸いな事に僕は「裁判所の法廷に加害者」として立ったこともあり、完全に勝訴した。当たり前だ。参加者は「雄三に強制されている」のではなく、その場を立ち去ればいいだけで、世の中で「不愉快な目に合う」ことなんて、掃いて捨てるほどある。

 富山WSでも起こったが、参加者に「明日は来ないでくれ」と言うと、翌朝、椅子に座っていて、恨めしそうに僕を見ている。僕にとっては「参加している事実だけ」が大事なのだが、僕に「来るな」と言われる人は若いから「意地・自尊心」なのは手に取るように分かる。スポ根や相撲の稽古ではないのだから、「無駄だ」と思うが致し方がない。このしこりは困ったもので、事あるごとに「恨めし気な目付きで僕を凝視」している。ここで追い打ちを書けるとナイフを向けられるのを、僕は経験上知っているから、深追いはしない。

「創作」をするというのは、誰しも「安全地帯」にいるのではないという事を分かって欲しいと思う。「個人の責任」ですべてが行われるのだ。「個人の想い」だから、どんな風に乱反射してもかまわないし、オーバーに言うなら「芝居が壊れたっていい」のです。むろん終演後に厳しいダメだしを述べるけども。

「精神の障がい者」を容認する「芝居創り」だから、基本的には何をしてもオーケーなのだ。が、人前に出てブレーキが掛からなくなり、喋り続ける参加者を目の当たりにすると痛ましい。

 いうならば、様々な参加者が居て、見知らぬ観客の前に立つというプレッシャーを体験すると言う事なのだ。芝居は「嘘事」だから、現実のプレッシャーは怖いだろうけど、真似事を体験するのも悪くないだろう、というのが僕の立場だ。分かりやすくいうと、遊園地のジェットコースターのようなもので、そんな恐怖心はすぐに楽しみに変わる。そして体験者同士が「恐かったねー」と、互いに親近感が持てる。

 富山のWSの打ち上げは、会費制で行われたが、殆どの方が参加していた。もっと共に時間を過ごしたかったのだろう。写真家チカちゃんのフェイスブックのお蔭で、たくさんの方のコメントが読めて、僕は幸福でした。富山の皆さんありがとう。

 間もなく、神戸のカボックでWSが始まります。今度は恩師の大橋也寸さんも演出してくださるそうで、「雄三の考えから大元」の恩師からの直接指導を雄三は面白いた思っている。奇想天外のWSになるのは間違いないでしょう。冷やかしで稽古を観に来てください、80歳の恩師と70歳の雄三の「真剣な創作」は、二度と実現できないと思うよ。その台本を書いているのが今売り出し中の小説家山下澄人君だから何がどうなるか分からない。出し物はモリエールの「守銭奴」。

 どんな稽古になるのか皆さんも想像はつかないでしょうが、僕にも想像はつかない。WSの参加者に「困るのが大事」と言い続けてきたのだから、僕自身も恩師も山下君も困るでしょう。そして「その先の何か」が見えてくると、我々は信じているのだろうと根拠なく思っています。こういう機会を与えてくださった「運命のようなもの」に感謝している、今日この頃です。

 

| - | 02:34 | comments(0) | - |
富山でのWSが始まった

 今回の「富山WS」の特徴は、定年退職者の男性が二人に、老齢の女性が二人いる。それに小学6年生の女の子に、中学生の男の子。あぁー、視覚障害の40代手前の男性もいた。それに初めての参加者が大半を占めていたから「雄三WS」の初期に戻った感じだ。富山の企画者であるイケダさんがあちこちに声を掛けてくださったんだろうと思う。

 とてもいい雰囲気だったのは、演劇の稽古なんて「場違い」と思っている方々が集まった気がしたからだ。要は地味な人達で、芝居をする事を「恥ずかしい」と思っている人達というのかな。良い例が視覚障碍者の方で、全盲になって何年もたっていないという。好き好んで「自分を人前にさらしたくない」に決まっている。ましてや「演劇の稽古の集まり」だと、自分も「芝居がしたい一員」になってしまう。視覚障碍者がそんな事を思うわけがない。

 「演劇の稽古」に参加するのは「厭」というのが、通常の感覚だだろう。「演劇の集まり」なんて僕でも嫌だ。「年配の女性」の二人も、ずっと何もしゃべらなかった。不思議にこの二人も足が悪く、片足を引きずっていた。でもしばらくすると、当てると片方の女性は「自己紹介」のような事を小声で喋りだした。「おわり」と自分で口にした。「続けて」というと「頭が真っ白で・・・喋る事なんかありません」と言う。僕はなおも「続けて」と促すと、「・・・なんかしないと、いけない、娘にも言われて・・・私は・・・自分を変えたいんです・・・」と言った。

 ここが大事なのだが、いうなら「喋りたくない人」に僕が無理矢理喋らせているとなりがちだが、参加者全員が泣き声のようなか細い声を応援しているのが感じられた。全員が「イジメ」とは逆の「困っている人」に「暖かい視線」を送っているのだ。見知らぬ人の善意を実感できるのは嬉しいことなのだ。

 その無理矢理喋らされた年配女性がどう思ったか知らないが、絶対に「喋るのを拒絶していた」もう一人の年配女性が「私は三毛猫が好きだったんですが、飼ったのは黒猫で、何でこんな猫を飼ったのだろうと思っていましたが、可愛くなってきて・・・そしたら黒猫が死んでしまって、淋しくて、淋しくて・・・」と話した。野太い婆さん声で話すから、僕は「ご主人の話」をしているのはすぐに分かった。「旦那さんは亡くなったでしょう」というと、素直に顎を下げた。

 御主人が亡くなって、足を悪くした老婆の一人暮らしは、「淋しい」を認めたら生活が崩れてしまうのだ。弱気にならず気丈にしているのが「猫の話」となったのだと僕は捉えた。

 30代で全盲になった参加者も「目が見えなくなる不安」を誰に打ち明けましたかと質問したら「誰にも言いませんでした」との答えた。「そんなわけないだろう?」と突っ込んだが、どうやら彼は本当に「誰にも言わなかった」らしい。自然と「全盲になった」ような捉え方をしているのろう。「逆境に打ち勝つ」の表現の仕方は人によって様々あると言う事だ。愚痴らない、弱気にならない・・・ということかもしれない。彼は一貫して「障がい者じゃない」態度を取り続けていた。「一度行った場所には杖なしで戻れる」と連れてきた人が言っていた。注意深く見ると、本当に席に戻る時も、躊躇せずに椅子に座っていた。これにはちょっとびっくりした。意志が強いのだけど、力んではいない。

 僕は「雄三WS」で主張するが、「その人のフツーさにドラマがある」という事ね。20年も「素人との芝居創り」を行っていると、フツーの人は「当たり前にやる事」や「出来る事」に価値を置かないのだ。オリンピックやパラリンピックのように「競争に勝った事」を自分も他人も「ドラマ」と思っているのではなかろうか。NHKのドキメンタリーに任せておけばいいのに・・と僕は思う。

 これは40代の「神奈川WS」の参加者だったが、「私には特別できる事はありません」と、「特技の披露」を拒絶した。「専業主婦で家族のご飯を作っているだけですから」と言う。僕が「じゃ料理をしてください」というと、彼女はパントマイムで麺を湯がき。キュウリを刻み、焼き豚を切った。何も言わないのに「冷やし中華」だと分かる。指先の感じで「キュウリと焼き豚」の違いが分かる。無論彼女はパントマイムなど習ったことはない。

 彼女は「他人に評価されない事」「当たり前にやっている事」がすべての人生だったのだろう。僕は「あたり間に出来る事」を評価したいと強く願った。居ても居なくてもどっちでもいい地味な主婦ね。

 富山WSが成功するだろうと思ったのは「喋らない年配女性」を、全員が暖かく見守ったからだ。この「他人の不安を共有する」という空気さえでき上れば「人はとてつもない能力」を出すのを僕は経験上しっている。

 能力は「個人のものではない」し、「援助してくれる応援者」の力だけではない。物を言わない「暖かいオーラ」が、その人の能力を開花させると、僕は信じて疑わないのです。「雄三WS]は見知らぬ人の集まりであり、友人にならないように薦めるのは、瞬間の「暖かい関係」を実感して欲しいからだ。

 

 

| - | 03:18 | comments(0) | - |
東京の「守銭奴の稽古」に嵌まり込んで、「富山WS」を忘れるとこだった。

 今度の土曜日に「富山WS」の為、東京を出発します。だから日曜日の「楽ちん堂」での稽古には雄三・清子はいません。そのつもりで来るなら、来てください。アンセから急ぎ連絡はいれてもらうけど。

 僕は「雄三WS」で「フツーの人にドラマは潜んでいる」という考え方で芝居を創ってきました。20年かけて「芝居創り」や「本番で見せるものを作る」というスタイルを目指したといえる。あくまでも参加者の「自分の発見」だから、「遅刻・早退・無断欠席自由」であり、「出たい人が全部舞台に立つ」という原則を守ってきた。それに「働いている人」が「芝居創りに参加できるのは一週間ぐらい」だろうと、「4日間の稽古」「2日間の本番」という風にした。

 この創り方がいかに斬新で、無謀だったかは、10数年前の新潟WSだと分かりやすいだろ。初日に200名の参加者がいたし、130名が舞台に立った。昨年の大船渡の初日の参加者は1名だった。

 今、400年前のモリエールの芝居の稽古を東京でしている。この戯曲によると、出演者が20数名で1か月の稽古をしている。当時は物価は安かったかもしれないが、スポンサーが付かなきゃ、こんな大所帯の維持は無理だよね。役者をノーギャラにしても、舞台装置や衣装代が掛かる。多分、王侯貴族のお抱えとなって、サービスや接待に努めたのだろう。

 スポンサーのいない小劇場はどうしたかというと、自力で観客を集めるしかなかった。日本の大正期の例でいうなら「おっぺけぺ」で名を成した「壮士劇」は、自由民権運動の結社の集まりだったから政治的なスローガンはあった。が、観客が集まらないから「エロ」を劇中に導入したのです。女性闘士を官憲が拷問するというシーンを必ず付け加えた。教科書には乗らない小劇場の裏面だが、劇団の当事者たちは「客の入り」で苦労したってことだ。僕が子供の頃に見た映画「鞍馬天狗」にも、必ず「拷問のシーン」はあった。悪代官に捕えられた姫は縛られ鞭打たれる。それを助けに行く「鞍馬天狗」。現在の「エロビデオ」に繋がるということだ。

 僕は「続けること」が肝心と肝に銘じて、「演劇を行った生涯」だったと思う。「演劇」を生活の最優先事項とした。「金がないから降参する」、いうならば秀吉が行った「兵糧攻め」だよね。これは情けなというか、仲間たちはそこで挫折する。こんなことをすると人生で最も大事なのは「兵糧」つまり「金」と言う事になってしまう。「演劇は空想」であり「現実は金」という見方も出来る。演劇という「嘘事」は、「リアルな現実」に戦わなくてどうする、と僕は思っている。

 

 それはさておいて、今年の「神戸WS」では、ストーリーを導入した。多分、僕も「客の入り」を心配したのかもしれない。これまでの「参加者の心に潜むドラマを捜す」のを止めで「人殺しをする」「刑務所に入れられる」という、「劇的ありき」で稽古をしたのだ。

 いうならば参加者が常連ばかりになっていたから、互いの「内面のドラマ捜し」に飽きていたのだろう。稽古初日に「今回は大河ドラマで、筋があります」と宣言したが、常連の辻さんは「雄三さん、あんなことを言ったって、すぐに変わるから」と、新入りに教えていた。

 その程度の事ですが、今回の「富山WS」でも「分かりやすい劇的」を試そうと思っています。「あなたは殺人を犯しました。誰を殺しましたか?」を、稽古初日の最初の問いかけにしようかと、今思いついた。

 まぁー、いつ何時、自分が「人殺し」をするかも分からない。というのを前提にしているのかもしれません。昨日起った「兄妹殺人、死体バラバラ事件」や「3所帯住宅での一家皆殺し事件」は、もしかしたら自分かもと思えるものね。テレビのワイドショーで「事件が身近になった」といえるんじゃなかろうか。

 富山での「政治活動費の不正使用」で議員がどんどん辞職しているのが、全国ニュースで流れています。どうやら「不正のやり方」を会派の先輩から受け継いだらしい。先輩か教わって同じことをやったのに、全国民に恥をさらし、頭を下げなければならない。これも「いつ何時、自分が犯罪者として扱われるかわからない」ということだよね。視聴者もコメンテーターも、情け容赦もなく石を投げる。僕は「気の毒」だと思う。

 富山の参加希望の皆さん「刺激ある稽古」をしましょう。僕は張り切っています。神戸のセンセーズの方々も参加してくださり、素晴らしい本番公演になるでしょう。

 

| - | 21:08 | comments(0) | - |
「恋愛の芝居の稽古」をしました。

 特定の異性に「呑まれる」というか、文学風に書くと「魅了される」というのが「恋愛」だろう。これを演劇で扱うのは難しい。既成のドラマは「恋愛ばかり」を扱っているから、二番煎じというか、出来合いの映画テレビの真似が「恋愛」となる。こんなドラマを見て育つと、現実の「恋愛」も形ばかりが大事になる。「デートする」とか「プレゼントする」を「恋愛」だと思うようになる。クリスマスやバレンタインは「異性に魅了される」とは何の関係もない。「恋愛」を利用した商業主義に過ぎない。

 今度、我々が芝居にしようとしているのは古典の「守銭奴」。商業主義に染まってしまった我々が、今一度「異性に魅了される」という感覚を取り戻す事でもある。

「恋愛」を体験しない人はいないが、記憶に残すのは難しい。記憶というのは、どうしても「分かりやすい認識」にしようとするからだ。「相手はどんな人?」の質問に「タレントの○○に似ている」という答え方をする。ということは「記憶もタレント似」として定着させる。情報に染まるということは、自分の体験が消されて、商品に置き換えられるということだ。「タレント」こそが「商業主義の最先端」だからだ。不特定多数の人が「タレントを恋人のように洗脳する」という事でもある。それはそれで構わないし、異を唱えるつもりはないが、自分の「体験した感覚」を失うのは、あまりに忍びないと僕は思う。

「性の目覚め」を思い出して欲しいのだが、「自分が自分じゃなくなる」の感覚に、僕は近と思う。理由なく「後ろめたさ」を覚える。「自分を穢れている」感覚が起こる。これを一人で体験するのだから「何が起こったか分からない」のだ。僕は中学生になったばかりの頃、突然「性の目覚め」が起ったから、衝撃的だった。

 このように「異性に魅了される」も、「何が起こったか分からない」が、これが「恋愛」という知識はある。自分が高揚して「誰かに話さずにはいられなかった」記憶がある。「あの人が好きなのだ」の高揚感が嬉しくてたまらない。が「こっちを嫌いだったら」という不安に襲われる。これが辛い。

 ヘラヘラしたり、涙ぐんだり、と初の感情を味わう。「あの人を好きにさえならなければ、今まで通り伸び伸びできたのに」という後悔も加わる。

 というように、「恋愛」は「自分の中に起った事」は言葉にはできない。それを再現できるのは「演劇」でしかないし、「雄三WS」でしかこんな試みをしていないと思う。

 

 先週の日曜日にこの「恋愛の稽古」をしたのだが、難航した。ユーチューブ「ささやかな稽古、9月11日」でアップされていますので、興味が湧いた方は見てください。

 DVDで読み取るのは無理だと思いますので、ちょっと説明しますと、最初はアンセイ君とブッチーさん。アンセ君は恋愛は「感情がコロコロ変わる」と受け取ったようだ。次のナカジマさんは、「高校時代の感覚」を呼びさまそうとしたし、山村さんは「不安もひっくるめて嬉しい」としていた。3カ月前に身体障碍者となったオギノさんは「バカヤロー」と自分を怒っていた。情緒が不安定になったのが可笑しかった。ナツメさんは「自分の殻を破る」のを「恋愛」と捉えたようだ。「他人に魅了される」って、言うならば「恋愛は一人相撲」なのだ、「目的」がないのに起った事であり、「原因を探る」が漠然としている。

 だから「言葉でまとめる以前の恋愛」こそが、「恋愛の滑稽さや一途さ」が描けると思ったのだ。役者が「自分の恋愛体験を掘り起こさない限り」恋愛はテレビドラマの真似となってしまう。

 来週は「一目ぼれ」に挑戦したいと思う。本人は隠しているつもりでも「誰が好きになったか」は、周りはすぐに分かる。だから、演技法はあるはずだ。美男美女じゃなくても「素敵なヒーローやヒロイン」が演じられるということで、周りから見える「滑稽さ」と、本人の「真剣な想い」が演じられると思う。そして、観客が「我が事」のように感じるからこそ、芝居は「面白い」のだと思う。

 

| - | 01:38 | comments(0) | - |
「小説」について

 僕の本の何冊かは商業出版されているが、唯一売れた本は「間の取れる人・間抜けな人」だが、あれは編集者が凄かった。ほとんど全部が「赤鉛筆で直し」が入り、何度も書き直した。情け容赦がなく、腹立つほど「赤」が入っていた。原稿が「ま赤っかっか」といえるくらいだ。題名から始まって、目次、次に書くべき事を指示してくる。

 が、編集者は表に出ることはない。その後、僕はそんな編集者に巡り合わず、本の注文は無くなった。

 10数年前かな、「身体文学」と題して「誰でも一週間で小説が書ける」というWSを行った時期が数年ある。小説も商売だから、必ず簡単な方程式があるはずで、それはジャンルによって違うと考えた。年に一回「小説のジャンル」を決めて、方程式を見出すというやり方。

 何も難しい事ではなくて「犯罪小説」だと、芯は「脅迫文」にあると勝手に設定するという事だ。で、WSの参加者に「辞書」を持ってきてもらい、目に飛び込んできた語彙で文章を作るという試みだ。例えば「融合」と言う語彙だと、「私は社会と融合できなかったし、したくもない」という文章を作るという事になる。

 これを行うと、みんなは「漢字の普通使わない語彙」を選んだ。犯罪者は「平々凡々」な自分の暮らしに嫌気がさしているから「事件を起こすのだろう」という考え方ね。脅迫文の面白い所は「自分を消す」というところにある。左手で書いたり、新聞の活字を張りつけたりする。小説というと「自分の思いを書く」と思われがちだが、これとは逆の「思いを消す」という、そんな「書き方」を身に付ける方法ともいえる。いうならば「ラブレター」に近いかもしれない。「背伸びした自分」というか、「恥ずかしくて書けない事」というのかな。その延長線上に「誇大妄想の自分」がある。神戸で少年を殺した「酒鬼薔薇聖斗」がその典型だろう。普段は使わない漢字の組み合わせを「脅迫文の自分の名前」にしている。

「おとぎ話・編」では「桃太郎」を題材にして説明した。「お爺さんやお婆さん」が登場するが、「父や母」は出てこない。両親は「鬼ヶ島の鬼なんだよ」ということね。爺さん婆さんは「働き盛りの両親(我が子)」を恨んでいるが、それを堂々とは言えない。「泣き言」でしか訴えない。訴えられた「血縁のない者」が成敗するというのがパターン。

「かちかち山」はこの図式がはっきりしていて、婆さんを殺された爺さんは、直接復讐するのではなく、知恵者のウサギに訴える。そしてウサギが爺さんんの代わりにタヌキを殺すという筋立てになっている。

「猿蟹合戦」も同じで「父親を殺されたカニ」は「臼・栗・蜂」にサルの非道さを訴えるだけだ。で、「縁のない助っ人」がサルを懲らしめるという話だ。

 この無責任というか、当事者が「被害者ぶり」を発揮するだけの「子供に聞かせる物語」を創ったのは、世界広しといえど日本だけだと思う。良いにつけ、悪いにつけ、日本人の体質と関係があるんじゃないかな。だから、「被害者ぶり」を書けない人はいない。

「恋愛小説」はもっと簡単で、「妨害者」の設定だけが大事で、「禁じられた恋」とすれば、当人が燃える。これは現実でも当てはまるから、理屈はそんなに難しくない。夏目漱石が「妨害者」のパターンを様々書いている。名作「こころ」では、親友「K」が現れるまでは、主人公は「お嬢さんを結婚相手に押し付けられるのではないか」とむしろ恐れている。だから「こころ」の主人公は「恋心」や「性欲」「人柄」でお嬢さんと結婚したのではないとはっきり書かれている。「妨害者」こそが「恋愛の素だと」ということね。

「ベストセラー小説というのもやったな。当時売れていた村上春樹や吉本ばななを教科書にした。教科書ったって、読むのは僕だけだったけどね。

 誤解を恐れずいうと、「ベストセラー小説」には「人間の意思」のようなものを意図的に欠落させている。村上春樹でいうと、奥さんや恋人が「失踪」しても捜しに行かないで、スパゲッティーを茹でたり、ベランダで夕日を眺めてビールを飲んでいる。主人公の心情を書かずに「風景」を書いている、ということだ。モチーフになる「風景」は「空っぽ」ね。使われなくなった煙突や土管が出てくるし、多用するのは「空井戸」だろう。「心情」を「風景」に置き換えているのだ。「空っぽ」の事物の描写が書ければ「村上春樹っぽいもの」を書くのはそんなに難しくはないと思う。

 

「4日間で舞台に立てる」と同じように「誰でも小説が書ける」というのが、僕が「やらんとする仕事」だろうと思う。

演出家は「一緒に創る」と認知されているが、「編集者」は陰の人なるのは当たり前のことだ。そういうものだと、僕も思っていた。

 これが、山下澄人君の出現によって、僕は天地がひっくり返るほど驚いた。「雄三との出会い」を彼は何度もブログに書いてくれている。僕は山下君の演劇にさしたる関わりも持たなければ、「彼の小説」は単なる一介の読者に過ぎない。が、彼は「自分の創作の原点」は「森田雄三との出会い」と書いてくれるのは嬉しい。が、読者の方々に断りを入れたのは、山下君が「恩を忘れない人」というようなリアルな話ではないと言う事なのです。「創作者同士が互いに助け合おう」という精神が分かりあえると言う事なのだ。「運動体」になると言う事かな。「自分を誇る」のは馬鹿馬鹿しいことであり、才能があっても「続かない人」を僕は嫌というほど見てきたんですね。

 誰しも「自分を誇りたい」し「手柄にしたい」のは、表現者なら当たり前だ。そんな事に目くじらを立てるのではなく、「それを乗り越えるもの」を持とうと言う事なのだ。これを言葉にすると陳腐だから書かないが、「一緒に居て遠慮がなく、しかも楽しい」というのかな。「森田雄三」と「山下澄人」という個人はどうでもよくて、その場にいる、それぞれの結びつきを大事にするというのだけど、漠然としか分からないよね。

 僕は「雄三WS」は「欠席する人が一番良い稽古」というが、皮肉でも何でもなくて、「どんな稽古をしているだろう」の想像が大事だってことね。こっちは「こんな稽古をしたよ」と言える喜びもあるしね。何よりも大事なのは「想像」だと「嫉妬」にはなりにくいって事ね。

 プロ野球の解説者で元監督の野克也氏が現役を止める決心をした瞬間を書いていたのを読んだことがある。自分の打順でピンチヒッターを出され、ベンチで「三振しろ!」と願ったのを意識した時だって。プロ野球は厳しい競争社会だから「三振しろ!」と願ったことは多々あったが、意識することなく「頑張ろう」「負けるもんか」に置き換えていたんだって。だから「嫉妬じゃないもの」というのを「三振しろ!」を超えた先にあるものと書きたかったのだ。「創作は競争」ではないと言う事なんだけど、説教めいてしまうから言葉は厄介だ。

 

| - | 06:06 | comments(2) | - |
「愛情」は捉えどころがない。

 僕はうちに来る野良猫を可愛がった。実はこの野良猫、一階のベランダで産まれた5匹のうちの1匹だ。その子猫たちに餌を与えていたのだが、一匹だけが邪険にされてなかなか餌にありつけない。僕は栄養不足の痩せた猫に、特別に餌を与えるようになった。がこの猫は、兄弟猫に餌を奪われたトラウマか、餌を見ると唸って歯をむき出す。僕の指に噛みつく。それが可愛かったから、その痩せた猫だけに餌を与えるようになった。

 田舎で猫を飼っていたというスタッフの泰子が、その猫を可愛がったから、僕はその猫を「ヤスコ」と名付けたのだが、一向に僕になつくことはなかった。人間の泰子からは素直に餌を貰っていたようだったが、僕の指は相変わらず噛まれた。この「ヤスコ猫」が大きくなってくると、噛まれると痛い。指から血が出る。が、僕は「痛い!」と叫びながら、指で餌を与え続けた。ヤスコ猫は腹いっぱいだと「柔噛み」をするが、すきっ腹だとキャーギャー騒いで強く噛む。たまに上等の缶詰を与えようとすると、缶詰を持っている僕の手まで近づいて、強く噛む。指に猫の犬歯の穴が二つ開くくらい。ヤスコ猫は僕の指を噛むのを愛情と勘違いしているのが分かると「痛い」のも可愛くなってくる。

 これが僕の愛情の理解の仕方だと分かったのは、小学校の低学年の男の子を預かった時だ。仮に彼をT君としよう。彼は暴れん坊で一緒に来ている他の子に棒切れを振り回して「殺してやる!」泣き叫ぶ。賢い子で他の子に棒が当たるような振り回し方はしないし、ダンボールの空き箱を叩きながら「死ね!」のような暴言を吐くだけだ。当初僕は彼の暴力はそのうち納まるだろうと見守っていた。それが30分以上も納まらない。凄いエネルギーだし、もはや他の子に向かっているのではないのが分かってくる。内的な何かが爆発したのだろう。僕はT君に興味が薄れ、その側で仕事をしていたら、憑き物が落ちたように暴力は止み、ケロッとして「雄三さん、ドライブに行こう」と話し掛けてくる。

 ある時T君の「大暴れ」に遭遇した、うちの長男が「Tくん、君が暴れるのは『柿ピー』のせいだよ」と寸前に食べたスナック菓子を指さした。長男はイベントを行っていて「問題児」の面倒を見ていて、「子供の食育」がヒステリーに関係があると気づいたらしい。子供が刺激物に過剰反応するという。「柿ピーには唐辛子」が入っているとか。

 それでも、T君の「暴力」は収まらず続いていた。このT君の4歳の妹までが泊まりに来るようになって、清子が言うには「他のお母さんが赤ん坊に授乳をすると、妹は身体が固まり凝視する」と言う。その時にT君が暴れると言っていた。T君と妹は「お母さんがいなくて、父親に育てられている」のだ。俗に言う「シングルファザー」ね。

 次男は心理学を勉強して、子供を扱う精神科で長くボランテアをしていたから、T君を専門用語で何とか言っていた。「分かりやすく教えろよ」と言うと「愛情が分からない子」というか、「愛情を物差しで測る」んだって。

 こんなことを書くのも、今作っている芝居で「愛情」を描かねばならないからだ。「何を愛情とするか」の実感は、個人的な体験によって違うに決まっている。どこかに「愛情の手本」があるのではなく、人それぞれが見つけるものだ。

 知り合ったばかりの10年前、神戸のセンセーズの小浜先生は独身だった。それまで30回以上も見合いをしたらしいのだが、決まらなかったという。その小浜先生が「見合いをした」と小耳に挟んだから、稽古場に現れた途端に「小浜さん、結婚するんだって」と軽口を叩いた。そしたら小浜先生の体が緊張して、怖い顔になった。「誰に聞いたんですか?」と威嚇する声。僕は自分の軽口を謝罪しなければならないと思った途端、小浜先生は満面の笑みとなった。で、結婚したのだが、結婚式に招かれたのは「センセーズ」という芝居の仲間だけだった。

 奥さんとなった方は、小浜さんを「変わり者」と思わないぐらい「変わった人」なのだろう。子供を出産した時に、亭主である小浜さんに知らせなかったそうで、看護師さんからの別の問い合わせで、我が子の誕生を知った小浜さんは憤慨していた。が、家庭騒動にはなっていない。社会的に「ちゃんとするのが嫌なカップル」なのだろう。即興の稽古で、奥さんの事をいろいろ喋っていたが、ここには書けない。普通だと「悪口」に受け取られるからだ。言うならば、テレビドラマの「愛情」とは程遠いということね。

 僕も清子と初めて会った時は、これが愛情とはとても思えなかった。僕を育ててくれた祖母に似ていると思った。「君は死んだバーチャンにそっくりだよ」と言った記憶がある。僕も遠慮がなかったし、清子もそんな気がした。デートの途中で雨が降ってきたので、僕は「ちょっと待ってて・・」と、八百屋の隅からダンボールの空き箱を持ってきて、清子に渡した。これは僕には記憶はないが、清子は「驚いた」と後から教えてくれた。段ボールを盗んで傘がわりにしたことは、別の女性にはないと断言できる。清子にはバーチャンのイメージが根付いていたいたのだろう。

 愛情は絶対にパターンではないと僕は思っている。他人に話す時に「分かりやすくする為」に、自分の人生での最も大事な「愛情」を「他人のを持ってきてしまう」のだ。「愛情」なんて、曖昧模糊なものであり、それを振りかざすとロクでもないことになる。

「愛情」は抽象概念であるから、たまに断定するのも「知的な行為」だと思う。が、ついつい「愛情」を熨斗紙つきの桐の箱に入れてしまいがちになる。愛情って流動的で掴みようがないに決まっている。だから「悩んだり迷ったり」するのだろう。

 が、人には「これこそが愛情」という手触りがあるはずだ。そんな手触りを思い出す為に、楽ちん堂で、みんながいろいろ喋る、これが我々の芝居の稽古の仕方だ。実感の発見というのは「人の話を聞いていて思いつく事」なのだと考えて、長年芝居を創っている。皆さんもそんな稽古に参加しませんか。見学で聞いているだけで「自分の愛情の手触り」が思い当たるはずです。一人で考える愛情は「ノスタルジー」であって、葬式の弔辞のようなものだと思う。「愛情」って流動的に決まっている。だから形にしない我々の演劇で扱うしかないと僕は思っています。

 

| - | 05:43 | comments(2) | - |
「夫婦喧嘩を面白と芝居にしています」

 昨日シュウコさんの事をを書いて一晩眠ったら、大きな事が理解できた。「シュウコさんの事」というのは、「無視される」「いいように使われる」という女性の事というのかな。そしてシュウコさん本人には「愛嬌」があるから、誰も悩んでいるようには思わない。そんな趣旨の事だ。

 シュウコさん本人は「自分が相手からなめられている」のが腑に落ちたらしい。その直後に行った即興稽古では「夫に苛立つ妻」を演じた。人畜無害な夫をヒロミチ君が演じた。その芝居でヒロミチ君は妻の話を聞きながら「すね毛を抜く」。真剣な話をしている妻は苛立って、「止めてよ!」と叫ぶが、夫は「何を怒られた」のか分からない。繰り返されて、やっと分かった夫は「昔からの俺の癖やん」と受け流す。いたって平静な夫に妻の怒りのボルテージは上がるが、もはや「自分が何を怒っているのか分からなくなる」。夫の「いつも通りの態度」に苛立っているのだが、夫は「妻がご機嫌ななめ」としか受け取らない。それにますます怒りが募る妻。

 この「向かう先が分からない妻の怒り」は結婚した人ならすぐに思い当たるだろう。アツアツの新婚時代を過ぎると「夫の存在自体」に腹が立つ、あの感じ。「ファブリーズしたい」とか「同じ空気も吸いたくない」「歯をせせる音にさえ物を投げたくなる」とはよく聞く。

 これは「妻の人間性」を気遣わない「男の横暴さ」と関係しているだろう。今現在共に暮らす夫は「横暴ではない」にしても、折々にムカつくって、誰しもが体験する事だと思う。

 僕も妻から「雄三は女性蔑視だ」とよく言われたものだが、無論心当たりがない。よくよく考えたら、僕には「女性蔑視」の血が流れているのかもしれないが、これは謝りようがない。歴史的に「女性は虐げられた存在」だったからだと理屈で考えるしかない。昔の女性は「奴隷」のように扱われたってことね。僕の母親は、晩年「嫁に来てから、私は奴隷やった」と事あるごとに嘆いていた。僕の叔父は職業軍人であり、酒を飲まないと口をきく人ではなかった。昔の「男らしく」「女らしく」は、大人になったら「男は戦争に行き」、女は「嫁に行き奴婢になる」と関係しているだろう。戦争で古参兵に殴られ、嫁に行って姑にいびられる。大人には苦役があり、それは避けられぬものだったから、それに備える幼児教育が「男らしく・女らしく」だったのだろうと僕は思う。水飲み百姓だった祖父は、ある日昼過ぎに田んぼから帰って、寝間から出て来なくなった。3か月後には亡くなったから、病気を我慢して力仕事をしていたのだと思う。「男らしい」というのは我慢だと僕は思っていた。

 僕などは現実に「男らしくあれ」という家庭教育をされている。いうならば、教育のDNAは残っているから、夫が普通に「妻を召使の如く扱い」妻が「夫の普通さに苛立つ」というのは男には自覚できないのかもしれない。

 一般家庭での「何で靴下脱ぎ捨てるのよ」「スキヤキの肉を全部食べるなんて信じられない」という妻の苦情は僕ら世代が死なない限り続く気がする。

 誤解がないように付け加えるが、良いとか、悪いの立場で書いているのではないのを分かって欲しい。

 そんな幼児教育された僕からすると、母親の「怒りの爆発」は定期的なものであり、怒られている父親が「黙ってやり過ごす」のも当然のことだった。だって次の日は、母親が父親に甲斐甲斐しくなったりしていたからだ。今思うと母親は「言い過ぎたと反省した」のかもしれない。母親と祖母にケンかもすさまじく、次の日は仲良くしていたから、喧嘩とはそういうものだと思っていた。しばらくしたら「笑い話」になる。

 平和な家庭といえばそれまでだが、「相手の存在自体」に腹が立つ体験は大人になってからも経験した。

 知り合いが「離婚する」というので話を聞くと、帰宅する「夫の靴音」だけで身の毛がよだつという。でもその「靴音」でルンルン気分になったこともあるでしょう、と言うと「夫の些細な癖のようなものを並びたて、虫唾が走る」と述べた。彼女は本当に離婚してしまったが、今はこっそり夫は妻の元に戻っているらしい。僕ら知り合いには隠すから、彼女とは付き合い辛くなった。

 人生とか、長く暮らす夫婦とかの「愛や憎悪」は理屈ではないのだ。が、マスコミというか、コメンテーターや本を書く人は「知的な人種」なのだ。テレビドラマもそうで、恋愛ドラマでいうと、「好きになる」「嫌いになる」をはっきりと違うものとして描いている。学生のように「青い」といえばそれまでだが、「知的な人」というのはパターンに嵌めるのが商売だから致し方がないだろう。息子と取っ組み合いの喧嘩をした話をこのブログに書くのも、「愛憎は複雑」だと僕は実感していて、それが現実で起こっている事で、良いも悪いもないと思っているからだ。

 僕は「現実ではありふれている事」でありながら、マスコミでは扱われない事を芝居にしようと思っている。演劇でしか取り上げる事が出来ないからだ。

 シュウコさんとヒロミチ君が演じた「キレる妻」と「何お怒られているか分からない夫」は、世間でもゴロゴロしているが、既成の演技法だと違うものになってしまう。妻が「止めてよ!」と叫ぶ演技も、既成の演技法だと「ずっと嫌だと思っていた」となる。現実はそうではなくて「その瞬間が嫌だった」のだ。受ける夫の側も「俺の癖じゃん」というのも、怒られて腹が立ったというのとはまるで違って「咄嗟に言ったに過ぎない」のだ。夫婦喧嘩なんてそんなものだと僕は思っている。

 カフェの常連客のお母さんから「子供に腹が立ったら、5秒間、頭の中で勘定するようにしている」と、得意げに語っていた。そんな馬鹿なだ。咄嗟に怒り、すぐに反省して抱きしめればいいではないか。子育てなんて思いついたままやらないと続くわけがないし、家庭が固苦しくなってしまう。

「叱責するのは5秒待ちなさい」というのは、元々は企業の「部下の指導」のマニアルかなんかだろう。「企業」と「家庭」の違いも、世間は分からなくなっているのだ。企業は解雇が出来るが「子育て」は「子供を捨てるわけにはいかない」から、マニアルが当てはまるはずがない。

「夫婦喧嘩」をイケない事としたのは誰だ!と僕は問いたいが、僕は演劇人だから「夫婦喧嘩っていいなぁー」「笑えるじゃん」という芝居をつくる以外にない。週末にはユーユーブに上げますので是非見てください。

 

| - | 02:46 | comments(0) | - |
「顔の造作」を受け入れよう

 前回の日曜日の稽古で大きな発見があった。「雄三WS」が、いかに反社会的かの発見といえる。雄三はとんでもなく「人を傷つけること」をやっていたかだ。

 女優を目指しているシュウコさんが熱心に稽古に来ている。大坂在住の恩師の大橋さんから駄目出しのメールが届いた。名指しで一人一人の事が書かれていて、普通に読むと、きつい批判に受け取れる。これを皆に見せる時に、シュウコさんは「私、ダメ出しを無視されることが多かったので、どんなことでも言われるのは嬉しい」との事だったが、シュウコさんの事は書かれていなかった。自分でも驚いたのだが、僕もシュウコさんの事は書かれていると思い込んでいたのだ。だから「恩師と雄三」の二人がシュウコさんの事を無視したのだ。だから、シュウコさんは「無視されるキャラ」という見方も出来る。

 決してシュウコさんは地味な女性ではなく、男にフラれるシーンが抜群によくできた。「なんでやねん。何であの人は別の女のとこに行くんや!」と泣きながら兄の設定の男に訴えかける。心置きなく泣き叫ぶ為に「兄の設定」にしたのだ。兄役は心得たもので「お前何才や。40になっても同じことを繰り返すに決まってるわ。なんでこんな時だけ兄ちゃんの俺のとこに来るんや」と、兄らしく答えていた。このシュウコさんの泣き方が凄くて、見ている皆が爆笑せざるを得ない。

 僕が「アレ?」と思ったのが、シュウコさんは中華レストランでチャイナ服を着てフロアーのバイトしていて、週に六日働いているのだが、「日曜日だけは稽古の為に絶対休む」と言っていたが、最近ちょくちょく稽古に来なくなった。店長から連絡があって「日曜日も出て欲しい」と頼まれるようなのだ。

 バイト先の店長もシュウコさんの「都合や気持ち」を一切考えないのだろう。いうならば「拒絶しないバイト」であり、「いいように使われる人」なのだ。本人は怒ったり不貞腐れたりするのだろうが、それこそが愛嬌として受け取られているに違いない。

 女優としては無視され、バイト先では「都合よく使われ」、話によると「転がり込んできた男には小遣いまで渡す」らしい。

 これもシュウコさんにはっきり言ったが、彼女は「たれ目」なのだ。怒ってもトローンとして見える。こんなことを言ったのも、彼女は自分の性格のせいで「無視され、良いように使われ、飽きると男は出て行く」と思っているのだ。「性格を直そう」と何度もチャレンジしたに違いない。彼女は自分を「欠陥だらけの人間」と思っているようだ。

 彼女は30代半ばになっても「芝居を辞めない」のも分かるではないか。「自分を主張できる女性」になりたいに決まっている。

僕は「男に生まれたい」「女に生まれたい」という願望はナンセンスだと思っているし、誰しも「男女の性差」を受け入れて生きていく。当たり前すぎる事だ。だから「整った顔」を持ったらそれを受け入れるしかない。顔の作りは千差万別で「ウケ口」「出っ歯」「つり目」「下がり目」など様々だ。これも「男女の違い」を受け入れたように、単に受け入れればいいだけなのだ。この顔の作りが性格に影響するかどうかは知らないが、社会生活すればするほど「性格は歪む」ものだろう。幼児がいかに性格が真っ直ぐかを思い出せばすぐに分かる。別な言葉でいえば「傍若無人」でウルサイとなる。

 顔の作りと性格は関係ないというのが僕の立場だ。性格なんて言うと複雑すぎて捉えどころがない。その点、顔の作りは単純で明快だ。シュウコさんを例にあげると、「たれ目」だから、怒っても泣いても愛嬌となるのだろう。これと「無視される。良いように使われる。男に捨てられる」は関係ないのだ。関係ないから僕は「顔の作り」を稽古で公言する。社会通念では「顔の作り」を指摘するのはいけない事になっているのは知っている。大企業の受付嬢なら分からなくないが、ファーストフードでも笑顔が強制されるそうだ。馬鹿馬鹿しい。僕は創作の仕事だから「稽古に来る人」をのっぺらぼうのロボットとして扱うつもりはない。

 顎の長い20代の女性にも「顎を引かないで顎が目立つようにしなさい」と言ったら自信満々の芝居になった。「その人らしい」というのかな。基本は「自分の顔の作り」を生かすことで、それをどうにでも変化させて芝居をすればいいのだ。自分の「顔の造作」をおもちゃにすればいいのだし、それが役者の仕事なのだ。

 シュウコさんは何を納得したのか、その後「凄い芝居」を演じた。スタッフが編集したらユーチューブに上がりますので見てください。

 簡単にいうとシュウコさんは「相手が自分をなめているという演技」をしたのだ。「相手に嫌われたらどうしよう」という脅迫概念から自由になったというのかな。現実では一旦「なめられている」と思い込んだら、当人はジレンマに陥る。シュウコさんは自分がハマっていたジレンマを取り出しで「さぁーどうぞ」と、皆に見せられるようになったってことだ。

 僕はシュウコさんに「あなたは無視される人」と言った。「いいように使われる人」とも言ったし、「男は別れるのが楽な女と思っている」とも言った。酷い事を言ったのは間違いないし、裁判所に訴えられたら僕は罰せられるだろう。が、これを言っている時の彼女の表情は納得しているようで、腑に落ちた安堵の顔だった。だから顔を見て、みんなの前で喋る必要がある。一人でも彼女を憎んでいる人がいたら、こんな事を言うとシュウコさんを傷つけるだけとなり、一対一だと深刻になりかねない。むろん僕の「好き嫌いとは関係ない」のが大事で、僕の突っ込みを皆が笑うかどうかを大事にしている。皆が笑わないようなら僕に「私情がある」ということだ。

前回は実に良い稽古になった。

 

| - | 03:09 | comments(0) | - |
モリエールの「守銭奴」の稽古。

 最近の「雄三WS」では、様々な紆余曲折があってモリエール作の「守銭奴」の稽古をしている。何故、400年も前の芝居の稽古をするのかの経緯は省く、それがどうなるのかの目的も省く。まぁー昔の芝居の稽古を。日曜日の夕方集まった素人の人と稽古をしているということだ。

 僕は劇団に居た20歳の頃を省いて、ずっと「即興の稽古」で芝居を立ち上げてきたから、芝居の練習らしいものをやったことがない。だから古典劇の稽古は、2,3の例を除いて初めてといえる。

「守銭奴」は題名のように、とてつもないケチが出てくる。金を壺に入れて庭に埋めている。盗られるのが怖くて、その心配ばかりしているし、周りはその金の「おこぼれ」を手に入れようとしている。21世紀の今読むと、荒唐無稽な話で活字を追うのも放棄したくなる。今は誰しもが「自分の金」と「他人の金」の区別が付いていて、そこには混乱がないから「他人をケチ」とは蔑まないし、「金持ちを馬鹿にする」のは僻みとして扱われる。「うらやましい」の裏返しというのかな。

 それが「前舛添都知事の騒動」では連日ワイドショウでは「セコイ!」を連発していた。舛添氏がケチであり、人前で罵っても良いと言う事だ。「政治資金」を「私的流用」をしていたからだ。なるほど、こんな場合は「ケチや悪口を言う」となるのだ。会社で例えると分かりやすいが「接待費や福利厚生費」を独占して、私的に使っている偉いさん、いということになる。「接待費や福利厚生費」は社員なら「自分に回ってもいい金」ということだ。バブル期に建設業の営業をしていた僕は、タクシーを止めるのに札びらを振っていたのが、会社の金なのは知っていた。私企業の利益と「税金」は違うとなりそうだが、企業の利益の半分は税金となるから「経費」としたに過ぎない。まぁー似たようなものと僕は書きたいのだ。

 だから現代のケチは「企業の偉いさん」であるという事で稽古を始めた。別に企業や都知事の芝居をしたいのではなく、「ケチ」を罵る設定に現実味を持たせたかったのだ。「あいつはケチだ」の台詞を「ヒガミ」ではなく、真っ直ぐに言う為には役者には根拠が必要と考えた。この根拠をもたないと、古典劇は「学芸会」のようになってしまう。「貧乏」もそうで、我々は貧乏すると「金はどうでもいい」と思いがちだ。それは「生活保護」のシステムがあるからで、「飢え死」といったって、実感どころか見聞きもしない。「守銭奴」では「飼っている馬を餓死寸前」にしていても、誰も動揺しない。えらく時代が違うと思えるが、モリエールは「貧乏やケチのイメージ」を描いているのだ。豊かな時代のに洗脳された現代の当り前さで「金をくれぇー」と言ったって、それこそ「学芸会」になるに決まっている。

 モリエールの「守銭奴」という芝居は、「金のおこぼれを頂戴しよう」とする側と「金を盗られるんじゃないか」と不安になる側の、馬鹿馬鹿しい言動の喜劇なのだ。だから「貧乏人も金持ち」も同等に「生き生きする」のが大事ということだ。例えていうなら品の良いお嬢さんが、火事場でタンスを担ぎ出すといえば喜劇の意味が少しは伝わるかな。「なりふり構わぬ人間の土壇場」ともいえる。

 この芝居の稽古に参加している小説家の山下澄人君が台本を書くことになった。彼は「ケチなオヤジ」を「震災で儲けた奴」の設定にした。神戸出身の彼は「阪神大震災」で、ブルーシートが突然値上りし、それで儲けた商店主の話を見聞きしたらしい。焼き芋の値段が飛んでもない額になったとか、銭湯が高くなったとか。いうなら「震災成金」ね。それで金持ちになったら、近隣の人から「恨みを買う」よね。儲けた商店主は「うしろめたさ」が「金を盗まれる」に繋がるのも分かる。

 この芝居の演出は、僕の恩師である大橋也寸さんだ。僕は50年を超える期間、恩師に演劇を教わり続けている。恩師は大阪住まいだから、たまにしか東京にこられない。稽古のビデオを送り、ダメ出しを貰っている。これが面白い。

 先日は「登場人物が切羽詰まっていない」と言われた。そりゃそうだ、現代の都会人が出演者だから「自分の切羽詰まった体験」を思い出してもらわなくてはならない。「切羽詰まった」で、どんなシーンを演じるかということであり、それは人それぞれに違うだろう。サラリーマンが長いナカジマさんは「上司の指示通りに行ったことが間違いと怒られるシーン」を演じた。それが僕には「上官の命令で捕虜を殺した日本兵の戦犯」のように見えた。ナカジマさんは「会社という組織の理不尽さで度々苦渋を味わったに違いない。年配のヨリちゃんは「金がなくなった老婆が泥棒呼ばわりされるシーン」を演じた。品の良いヨリちゃんが荒野にいる魔女のようになったのが面白かった。

 「雄三WS」の創り方は参加者の中にあるドラマを捜し出してシーンに組み立てるという方法だった。が、今回はドラマありきで、参加者(役者)が、自分と関係ない人が書いた戯曲の中に、自分のドラマを見つける手法といえる。

 なぜ今までと違う手法の芝居創りをするのかと自問自答しても「こんな芝居を創る運命」だったがぴったりくる。僕が出来る出来ないや、好き嫌いを通り越して、こんな機会が舞い込んだということだ。「運命」だから、今の僕には「理由も意味」も分からないが、将来「こんな事だったのか」と分かると信じている。だから今は「守銭奴」に邁進するのみだ。

 日曜日の夕方、楽ちん堂で稽古していて、その映像をユーチューブで流していますので、興味のある方は覗いてください。

 

Check
| - | 03:16 | comments(0) | - |
+ イッセー尾形オフィシャルブログ
+ 森田雄三プロフィール
1946年・・・石川県白山市に生まれる。 2006年・・・兵庫県高砂市の教師とワークショップで芝居を作る。 スイス国立演劇学校(HMT)の教授となる。           ワークショップに関する本が何冊も出版される。           ワークショップに参加した人達、通称:「森田雄三チルドレン」が、ソーシャルネットワーキングサイト「mixi」(ミクシィ)でも多数存在し、ワークショップでの出来事・森田が話した内容「雄三トーク集」なるコメントがされている。 イッセー尾形の演出家。
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< September 2016 >>
+ SELECTED ENTRIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ recommend
+ LINKS
+ OTHERS
+ SPONSORED LINKS
このページの先頭へ