僕は70歳を越えてから、こんな仕事のやり方をするとは思わなかった。400年前の古典の名作「モリエール作の守銭奴」を「雄三WS」の作り方で現代風な作品にするという。
いうまでもなく「古典劇」というのは、台詞を覚え、動きを決めて、プロの俳優が40日間の稽古を経て作り上げるものだ。「雄三WS」は「4日間の稽古で芝居を創る」という趣旨。それも素人を問わず、出たい人が全部舞台に立つというやり方。しかも遅刻・早退・無断欠席自由という謳い文句。水と油というか、メチャクチャな組み合わせだ。もし企画者という責任者がいたら手を出さないに違いない。
が、これをやることになった。この話を我々の所に持ち込んだのは、雄三と清子の恩師である大橋也寸さん。だから僕は弟子に当たる。大橋さんからは「芝居は命を掛けてやるもの」と学んだ。人生でこの教えにどれだけ救われた事か。金が無くなったり、障がい者になるという人生のダメージを受けたが、毅然とやり過ごせたのは恩師の教えによるところが大きいと思っている。言葉を変えると「己の道を自分で切り開く」ということだ。「誰の言う事も聞くもんか」という言い方も出来る。ですから「自分勝手な雄三」と、その道の本家本元と恩師が、共に仕事をしようということでもある。「我が道を行く」同士が、一緒にやろうというのだから「一体どうしたんだ?」と、僕は自分でも思う。
その上、本公演で出演するのが「ヨシ笈田」というパリ在住の役者で演出家。先日、日本でも上映された「世界一受けたい稽古」で主演している。ピター・ブルックと40年に渡って芝居を創ってきたのだから当たり前といえばそれまでだが。
この「ヨシ笈田」さんも我々の芝居創りに参加する。笈田さんが何故、我々の稽古に参加するようになったのか詮索するつもりもないし、そんな事をしても無駄だろう。合理的な理由などあるはずがない。70歳になった僕は「縁」というか「運命」と思う事にしている。
割を食ったというか、この集まりに遭遇したのが小説家の山下澄人君だ。多忙な人気小説家なのに、この台本を書くことになった。きちっと台詞を書いたって、その通りやるわけではないという見通しを山下君は持っているだろうが、ヨシ笈田さんは台詞を覚える自信がないから「早く台本をくれ」とせっついている。あまりにも「何をどうしていいか分からない」からこそ、山下君は愚痴ったり、僕に質問したりしない。僕に聞いたところで何の根拠もなく「どうにかなるだろう」と自信ありげに答えるのは分かり切っている。
この組み合わせの基本は「自信がないからやる」ということであり、言葉を変えるなら「自分一人なら出来る」ということなのだ。山下君も「フィクション」という自前の劇団で20年活動しているのだ。
僕は「お先真っ暗」であり「頭の中が真っ白」であるからこそ、新しいものが生まれる予感があるんですね。「安全地帯からは何も生まれない」のを知っているつてことです。これが自由ってことだ。70歳にして実感している。
山下君を「台本通りにやるから、台本をくれ」とせっついたら、大橋さんからはモリエールのキャラクターの説明というか要望が入り、しかも「雄三WS」の「その場で作る」実態も知っている。買い物のついでに近所のオバサンが立ち寄り、その方を芝居に出す作り方なのだ。
この水と油のような大橋さんと雄三の創り方の違いを仲間であるシラサコさんは「大橋さんは舞台に出るからには、全て一流と見ているのであって、プロと素人の差別をしない駄目だしだ」と評価する。僕は「なるほど」と納得する。プロの俳優に絶望して素人と組むWSを始めた雄三の原点を思い出した。プロの俳優は表現法から抜け出せない事に僕は限界を感じたのだ。「プロの俳優程度の演技」はすぐに出来ると、素人と芝居創りを20年に渡って行っているのだ。
で、山下君の台本だが、これが素晴らしい。「守銭奴」という芝居は、題名の通り「どケチ」の話だ。それと「過剰な愛」ね。だから清子が「どケチとド愛」という題名にした。この激しく人間が接触する「劇の背景」を、山下君は「震災直後」設定にしたのだ。
今度の公演が神戸であるし、山下君も神戸の出身で、実家は震災で潰れている。部外者には分からないが、震災地の中がただならぬテンションがあったという。体験例として彼は、瓦礫の中を歩いていたら「スミトォー!」と呼ぶ声がして、振り返ると若い女性が向こうから走ってくるが、誰だか分からない。その女性が抱きついて、耳元で「生きていたのね」と言葉にならない声で泣きじゃくったとか。学校の同級生の一人だと思い出したが、この興奮に町中が巻き込まれていると感じたという。誤解を恐れず書くと「お祭り」と同種のテンションだったとか。
震災の廃墟の中という設定にすれば「人が生き生きして」、金儲けや恋愛に真っ直ぐ突っ走れる、と山下君は考えたのではなかろうか。僕の方としては「雄三WS」のつもりで、何気なく現れた一般参加者も「震災の想い出」を語ってもらえれば、もしかしたら「古典劇の緊張感」にまで至るかもしれない思える。
「創作」というのは「一瞬」にできるもので、時間を掛ければいいというものではない。そして「創作が生まれる緊張の持続」は、一二日が限度で、後はダレるだけと僕は体験上知っている。
部外者には理解不可能だろうが「震災は楽しい」というニュアンスさえ捕まえてくれれば、山下君の台本は成功すると僕は確信を持った。
「稽古はどうなるんだろう?」だった主宰の僕も、山下君の台本のお蔭で、稽古に向かう意欲が満ちてきた。「神戸WS」の参加希望の皆さん、今度の稽古では恩師の大橋さんも演出をしますし、ヨシ笈田さんは演出したオペラがヨーロッパで大当たりとなり、日本に帰れなくなってしまいましたが、盛り沢山の稽古になると思います。年取った我々が「強い自尊心とプライド」と闘いながら、「創作」に励みます。
またとない機会であり、二度とみられない事だから、ぬるま湯からちょっとだけ出て、見に来ませんか。