5時ごろから、ニコニコ動画をブッチーさんがセットしてくれていた。僕は見るでもなく見ていたら、受賞の知らせが入ってきた。「雄三さん、山下さんが受賞しましたよ」と、ブッチーさんの興奮した声。
僕は「山下君の作品が素晴らしいから、何度もこのブログで宣伝していた」。だから僕が受賞を喜ぶと思っている。僕の心の中を「勝手に決めつけるな」とでも思ったのだろうか、僕は不機嫌になった。過去のWSでブッチーがしでかしたこと「こうすれば雄三が喜ぶだろう」の類の過剰親切を思い出して、ブッチーに駄目だしを始めた。「雄三さん止めなさい。お祝いなんだから」と清子に止められるくらい、僕は不機嫌だったようだ。
自分でも良く分からないが「良かったですねぇー」の言葉に不機嫌になることが多い。お正月に「おめでとうございます」の挨拶に「どこが目出度いんだよ」と言いそうになったりする。単なる「へそ曲がり」に過ぎないのだろうけど。
僕は42歳で障がい者なった。障がい者になってビックリしたのは、「足を一本なくしたら、より自由になった」と言えないのだ。物理的に禁じられるのではなく、曲解される。まぁー簡単にいうと「強がっている」と同情される。それでも繰り返すと「受け流される」のだ。僕が「片足がなくなって良かった」と言うのを、まともに受け取ってはくれない。「裏返しの強気」と思われるだけだ。だいたい「変な人」として落ち着いたけど。
考えるに「障がい者」=「可哀相な人」という観念があり、不憫な人という前提が、顔を合わす度に変わらないのが分かる。僕は「障がい者は幸福」と言い続けてきたし、その表現をしてきたつもりだった、なかなか健常者の「常識の壁」は厚かった。「同情」されるわ、「手を貸そうとする」ってことね。皆さん善意だから断りようがない。二重に不自由となってしまう。
死病にかかると、もっと強烈な「善意」の人が現れる。「宗教の勧誘」だ。自分が宗教で病気が治ったと語り始めたりする。この「善意」を跳ね返すのは大変だ。
山下君の受賞記念に、なぜこんな暗い事を書くかというと、山下君の小説作品には「発言できない人」「感想を持たない人」が書かれているからだ。僕に言わしたら「善意」を持たない人ね。こんな「善意の意識のない」、僕流に言うと「単に親切は人」は多いし、普通はそのように生きている。だが「善意を持つのは良い事」と思う人がいるのは否めない。これが迷惑なのだ。僕は何度も道路で転んだことがあるが、例外なく、通行人は咄嗟に助け起こしてくれる。善意は意識的ではないのだ。
既成小説の登場人物の多くは意識的なのだ。「愛している」という情動すら意識的に書かれている。
山下君の受賞作「しんせかい」では主人公が失神するシーンがあるが、風景が倒れていくだけの描写だ。意識がなくなるのだから「思うことはくだらない」のだ。
そんな「意識のない」世界の捉え方が、僕の自分がした体験のようだと思った。皆さんもそうでしょう。子供の頃、飼っていた犬が死んでいたのを見つけた時、家族が泣いたから僕も泣いたのであって、悲しかったのではない。
そんな思いから、既成の役者を排除して、通りすがりの素人の人と芝居を創ってきた。そんな芝居の作り方に山下君が興味を示してくれて、「雄三WS」に助力してくれるようになった。
むろん僕は山下君が芥川賞を取ってくれるのは嬉しいし、参加者の励みになる。が、実を言うと、「芥川賞そのもの」に大した興味はない。
「ニコニコ動画」をセットしてくれたブッチーさんの喜びを見ながら、僕は受賞した山下君が「おめでとう」を言われ続けているここ数日を思い同情していたのだ。善意の「おめでとう」は拒否できないだろう。礼儀作法で「おめでとう」を言われるとしたら、僕には拷問のようだと思う。
こんな思いがスカッと晴れたのは、山下君の「受賞記者会見」だった。記者たちは明らかに定番の質問をする。「受賞を聞いた時の心境は?」とか「作風が変わったと審査員の感想がありましたが、それについて?」などなろ。誠実に答えながら「感想はない」という持論で、短く答えていた。
明らかに記者たちは作品に興味はないのだ。倉本聰の質問に至っては、本文の中では「先生」としか扱われていないのに、記者たちは多分筋書きだけを読んだのだろう、「倉本聰の質問」を重ねていた。作品とはほぼ関係ないのだ。これが新聞の見出しになるのだろうと僕は思った。
興味のない質問というか、問いかけに、山下君は苦笑を交えながら、ちゃんと答えていた。
食べ物番組で「おいしい」と言わされるのが当り前になったマスコミ業界があり、それが浸透し礼儀となった現代の中で、「記者たちの意向」も分かるが、「自分の実感を伝えたい」のバランスがとても良くて、好感が持てるものだったと思う。僕はただただ見とれていた。
山下君の好感度から、一人でも多くの人が、受賞作「しんせかい」を買って下さると嬉しい。
山下さんの作品を読んで「これなら書ける」と思ったかどうかわかりませんが、「雄三WS」の参加者の何人もが小説を書いています。「書いてみようかな?」のハードルは高いと思われがちだが、自分を「書く側」に入れないからと僕は思っている。「書いてみようかな」と思いさえすれば、案外簡単に「書き続けられる」かもしれません。「雄三WS」は素人の人たちが「4日の稽古で芝居を創る」というものです。面白くて続けている人は少なくない。小説もWS参加者の石田香織さんが書いた小説が、3月には商業出版されるという。書店に並ぶという事だ。
山下さんの受賞を記念に、これを読んだ皆さまも、「創作」に野次馬根性を出しましょうよ。
山下君を受難のキリストのように僕が思っている分かった。偏見に過ぎないだろうけど、しみじみと嬉しくなった。