イッセー尾形の字の部分 演出家森田雄三 語録ブログ
森田雄三語録ブログ
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「一人でも寂しくない」について

質問

 子どもたちが独立し、私たち夫婦も仕事でバラバラに暮らしています。知人から寂しいでしょう?と声をかけられます。寂しいだろうと思っていたのに、意外にも寂しさを感じることが無いのは、家族への愛情が不足しているのか、鈍感なのか、年老いて感覚が麻痺しているのかと自分を危ぶんでしまいます。もっと正直に言うと、清々しています。こりゃぁ、親としても、妻としても失格に値するのでしょうか。


回答

 スタッフの何人かで外食をした事がある。気が付いたらK君がきっちり食べ終えて、膝にてを置いている。その時に思い出したのだが、K君とは長い付き合いだが、外食のテーブルを囲んだのが初めて。だからK君の食べる早さに驚いたのだ。同じ「中華セット」を頼んで、彼だけ遅れて運ばれて来たはずだ。

 「何でそんなに早いんだよ?」と聞いたら、「自分だけ遅れるのが嫌なんです」と答えていた。

 そういえば、K君が事務所で飯を喰う時は一心不乱。周りに誰も人が居ないかの如く食べる。周りと話しながら食事するということはない。

 女性スタッフのMさんは、皆で食事をする時には食べない。時間をずらして納豆ご飯を食べているか、黙って帰ってしまう。


 質問者の文章を読んで、うちの二人のスタッフの事を思い出した。この二人には「過去」がない、と僕は思っている。

 「過去」と「未来」の大きな違いは、「過去」を思い出すには「親しき人」が関係しているということです。一般的には「連れ合い」や「恋人」ですが。

 「未来」は一人での「妄想」であるのに対して、「過去」は「共同幻想」ということですね。海外旅行も一人で思い出す事は稀だが、同行した仲間と話が盛り上がる事も多い。一人では「過去」を「妄想」するのは困難なのです。昔のアルバムを見る楽しみは、一人より二人以上が楽しいとでもいうのかな。

 この「共同幻想」は「恋愛」とも関係しているのです。

 友人関係では、共通の友人のアレコレや、洋服や食べ物といった「現在」に関わることが話題の中心である。書籍や映画の話も入るだろうが、今は放映中のテレビ番組に取って代わろうとしている。

 「現在」に対する共通の興味がないと、話題は成立しない。友達作りの根本は「現在」である。いうならば「今、面白い話をしないと排除される」時代なのだろう。明石屋さんまを代表とする、若手芸人は「今を面白くする」お手本となっているのじゃないかな。


 この通常の友人関係が一歩進んで、「親友」とか「恋人」になるためには「過去」が必要なのです。例えば、家族で海に行った子供の頃の話に相手が興味を抱くかどうかが、友人関係からの脱却ともいえるのです。通常は「相性」という。

 今、現在のリアルな関係から、密な関係に進むとでもいうのかな。精神的な関係といえば分かりやすいか。

 「過去」という「幻想」を、共同にできるのが「人生を共に歩む出発点」なのは間違いない。セックスフレンドと恋人の違いは、自分の生い立ちを語る事で、それぞれが自分なりに判断しているんじゃないかな。相手が自分の過去に興味を持つかどうかですぐ分る。セックスは現在の関係ね。


 「過去の幻想」の崩壊が、親しき者の「仲たがい」となる。「新婚旅行は楽しかったね」の共同幻想がなくなると、離婚につながる。

 相方が「新婚旅行は楽しくなかった」と思っているのではなく、「楽しかった」と共同で思い返す事を拒絶しているのです。ですから、未来と同じように「過去」も事実とは無関係といっていい。

 離婚寸前の「同じ空気も吸いたくない」といった拒絶感は、相方の想像に虫酸が走る現れなのです。現実のイザコザの問題ではなく「互いの妄想」が関わっているから、第三者が口出し出来ないのです。


 しかし、二人のスタッフの恋愛やその別離を見ていると、相手に対する「固執」がないのに驚く。彼らの恋愛関係には、俗にいう「互いの親密さ」を感じない。

 僕は興味があって、二人っきりの時に「何を話しているのか」を聞き出そうとする。が、彼らはなかなか教えてくれない。当初は相手を気遣っての事かと思っていたが、どうやらそうでもなさそうだ。具体的な事は書けないが、「現在」の話がすべてらしい。

 象徴的なのはK君が恋人に「自分の年齢を教えない」が大問題となっていた。K君はちょっとしたフザケのつもりのようだが、その期間があまりにも長く恋人はカンカン。K君は「過去を拒絶している」と取れなくもない。


 この「過去を拒絶する人種」が増えてきているのは確かで、好い悪いではなく、人間関係の濃厚さを嫌うのだろう。都会でラッシュアワーにもまれたら、早く自室で一人になりたいと思うのも分るではないか。

 スタッフのK君やMさんが変わり者扱いされているように、質問者も自分を変だと思うのもいたしかたないだろう。

 そんな風に「過去を拒絶する人達」が多くなったら、僕は生きていたくないけどね。昭和世代の僕からすると「愛のない世界」だからだ。







| - | 23:57 | comments(1) | - |
「美しい生き方」について

質問

 雄三さんが思う、美しい生き方はありますか? 中年になって、美しい生き方を考えています。


回答

 僕は、我々庶民の想像を超える桁違いの金持ちを知っている。所有するマンションが何部屋ではなく、何棟という単位。自家用ジェットを持っていて、一回の離発着での空港使用料が100万とか。思わず「飛ばない方がいい」と口走ってしまう。

 金持ちもここまで来ると、羨ましくない。別の動物といった感じに近い。だって彼がいう価値が、僕には分らないからだ。財布からカードを出してみせてくれて「ほら、ブラック」と言われてもサッパリ分らない。金持ちだって分るカードらしい。そんなカードを出さなくても、金持ちだって分るのにね。

 我々のスタッフが、物見遊山で彼の自宅見学に出かけた。クローゼットを開けて驚いたのが、スーツと靴。ブランドものの同じサイズの品が大量に並んでいたとか。彼はスポーツジムに通っていて、体型の崩れを防いでいるのは分るとしても、流行に惑わされないし、衝動買いもしないのだろう。「良いものを長く使う」というような家訓があるといっていた。ちなみに彼の実家は、明治政府の後ろ盾で大きくなった財閥。


 金持ちは現金を使わないというのが鉄則じゃなかろうか。僕らが誘うような居酒屋では、彼が例の「ブラックなカード」を出したところで、アルバイト店員が恐れ入るはずもない。だから彼は支払いをしないということだ。

 何の時に彼が現金というか小銭を使うのか、僕は興味を持った事がある。煙草は吸わないし、缶コーヒーを飲むのも見た事がない。公共の乗り物は株主優待券といっていた。嘘やオーバーではなく、彼は現金を使わないのだろう。

 「いつ現金を使うの?」の質問を忘れるぐらい、彼と一緒に居ると小銭が頭から飛ぶ。だって「40億で客船を買った」とか言うんだもの。

 

 僕のこの理屈からいうと「美しい生き方」というなら、「美」を意識しない事じゃないかな。「鏡のない暮らし」を実行してみたらどうでしょう。


 我々は、他人に不快を与えない身だしなみを要求される。それは致し方のない事だったのに、いつの間にか「快感を与える」となってしまったのではあるまいか。

 

 僕は若い頃、歯を磨かなかったから、他人に近づき過ぎると悪臭を与えるのを知っていた。歯が煙草のヤニで汚れているのは平気だったのは、そんな年寄りがチラホラいたからだ。だから、清潔や身だしなみは「不快を与えないため」であって、「快感を与える為ではない」ということね。


 昭和初期には「鏡」がなかった。僕が育った農村地帯の各家には、花嫁道具の「姫鏡台」が座敷にすえられていたぐらいだ。土間の隅の洗い場に、裏側の禿げた小さな鏡が柱に下げられていた気がする。

 派手な布が掛かった「姫鏡台」も、大正期に花嫁道具となったようなもので、それ以前の「鏡」の普及率は、もっと低かったろう。いうならば、太古以来、庶民はほとんど「鏡」を見ずに暮らしてきたということだ。

 今は写真機にビデオカメラ、街中に出ると四六時中「己の姿」が建物に映る。そしてテレビは24時間「快感を与える男女」が「それとは分からぬ、作り笑い」で喋っている。

 顔つきを楽器で例えると、今の人たちは、五線譜を繰り返し練習し標準的な音が出せるようになった「顔つき」といえるのではないかな。昔の人は、どんな音が出るかも知らないままに「楽器を扱う」のに似ている。どんな音が出ているのかさして気にしない「顔つき」とでもいうのかな。


「美しい生き方」をこのブログに質問するくらいだから、商業主義ドップリの住宅展示場の答えは期待していないだろう。

 どうひねろうかと考えているうちに「鏡」が思いついた。「鏡がない」ということは、自意識に苦しむということがないということなのです。

 あからさまにいうなら、不細工だろうと美形だろうと、「己の内面」に影響しない。質問者の文章を素直に読むなら、人生の峠を過ぎての「美しい生き方」についてだろう。


 僕は身体障害者だからよく分かるが、老いると自然に起き上がったり、立ち上がったりできない。「膝の前に手を置いて…‥」とイメージする事が多い。必ずこのイメージというのは、スムーズに動作する為だ。省エネとなっている。

 もし「美」をシンプルと規定するなら、イメージの動作や発言は美しいはずだ。イメージを意識的に使う為には、鏡のない暮らしがお勧めです。鏡を見ずして出かけて、自分がどう見られているだろうと思いを巡らす事が、「美しい生き方」の第一歩だと思う。






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| - | 00:27 | comments(3) | - |
「美しい生き方」について

質問

 雄三さんが思う、美しい生き方はありますか? 中年になって、美しい生き方を考えています。


回答

 僕は、我々庶民の想像を超える桁違いの金持ちを知っている。所有するマンションが何部屋ではなく、何棟という単位。自家用ジェットを持っていて、一回の離発着での空港使用料が100万とか。思わず「飛ばない方がいい」と口走ってしまう。

 金持ちもここまで来ると、羨ましくない。別の動物といった感じに近い。だって彼がいう価値が、僕には分らないからだ。財布からカードを出してみせてくれて「ほら、ブラック」と言われてもサッパリ分らない。金持ちだって分るカードらしい。そんなカードを出さなくても、金持ちだって分るのにね。

 我々のスタッフが、物見遊山で彼の自宅見学に出かけた。クローゼットを開けて驚いたのが、スーツと靴。ブランドものの同じサイズの品が大量に並んでいたとか。彼はスポーツジムに通っていて、体型の崩れを防いでいるのは分るとしても、流行に惑わされないし、衝動買いもしないのだろう。「良いものを長く使う」というような家訓があるといっていた。ちなみに彼の実家は、明治政府の後ろ盾で大きくなった財閥。


 金持ちは現金を使わないというのが鉄則じゃなかろうか。僕らが誘うような居酒屋では、彼が例の「ブラックなカード」を出したところで、アルバイト店員が恐れ入るはずもない。だから彼は支払いをしないということだ。

 何の時に彼が現金というか小銭を使うのか、僕は興味を持った事がある。煙草は吸わないし、缶コーヒーを飲むのも見た事がない。公共の乗り物は株主優待券といっていた。嘘やオーバーではなく、彼は現金を使わないのだろう。

 「いつ現金を使うの?」の質問を忘れるぐらい、彼と一緒に居ると小銭が頭から飛ぶ。だって「40億で客船を買った」とか言うんだもの。

 

 僕のこの理屈からいうと「美しい生き方」というなら、「美」を意識しない事じゃないかな。「鏡のない暮らし」を実行してみたらどうでしょう。


 我々は、他人に不快を与えない身だしなみを要求される。それは致し方のない事だったのに、いつの間にか「快感を与える」となってしまったのではあるまいか。

 

 僕は若い頃、歯を磨かなかったから、他人に近づき過ぎると悪臭を与えるのを知っていた。歯が煙草のヤニで汚れているのは平気だったのは、そんな年寄りがチラホラいたからだ。だから、清潔や身だしなみは「不快を与えないため」であって、「快感を与える為ではない」ということね。


 昭和初期には「鏡」がなかった。僕が育った農村地帯の各家には、花嫁道具の「姫鏡台」が座敷にすえられていたぐらいだ。土間の隅の洗い場に、裏側の禿げた小さな鏡が柱に下げられていた気がする。

 派手な布が掛かった「姫鏡台」も、大正期に花嫁道具となったようなもので、それ以前の「鏡」の普及率は、もっと低かったろう。いうならば、太古以来、庶民はほとんど「鏡」を見ずに暮らしてきたということだ。

 今は写真機にビデオカメラ、街中に出ると四六時中「己の姿」が建物に映る。そしてテレビは24時間「快感を与える男女」が「それとは分からぬ、作り笑い」で喋っている。

 顔つきを楽器で例えると、今の人たちは、五線譜を繰り返し練習し標準的な音が出せるようになった「顔つき」といえるのではないかな。昔の人は、どんな音が出るかも知らないままに「楽器を扱う」のに似ている。どんな音が出ているのかさして気にしない「顔つき」とでもいうのかな。


「美しい生き方」をこのブログに質問するくらいだから、商業主義ドップリの住宅展示場の答えは期待していないだろう。

 どうひねろうかと考えているうちに「鏡」が思いついた。「鏡がない」ということは、自意識に苦しむということがないということなのです。

 あからさまにいうなら、不細工だろうと美形だろうと、「己の内面」に影響しない。質問者の文章を素直に読むなら、人生の峠を過ぎての「美しい生き方」についてだろう。


 僕は身体障害者だからよく分かるが、老いると自然に起き上がったり、立ち上がったりできない。「膝の前に手を置いて…‥」とイメージする事が多い。必ずこのイメージというのは、スムーズに動作する為だ。省エネとなっている。

 もし「美」をシンプルと規定するなら、イメージの動作や発言は美しいはずだ。イメージを意識的に使う為には、鏡のない暮らしがお勧めです。鏡を見ずして出かけて、自分がどう見られているだろうと思いを巡らす事が、「美しい生き方」の第一歩だと思う。






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| - | 00:27 | comments(1) | - |
「なぜ人を嫌うのか」について
? 質問
 人を嫌うってどんな理由からなんですか?悪い人じゃないけど、好きになれない。一緒に居ると疲れるわけは何故なんでしょう?できれば、会いたくないと思う理由を教えてください。


 回答

 僕らの子供の頃には、個室というのがなかった。そもそも日本家屋には壁は殆どなく、障子や襖で各部屋は区切られていた。宴会や葬式、結婚式などを自宅で催す必要から、大広間が必要だったのだ。障子や襖を外せば大広間が出来上がる。

 そんな日本家屋で育った僕からすると、壁のない家は夏の暑さ対策だというのを知っていた。エアコンがなかった時代の夏は暑い。襖、障子に雨戸を仕舞えば、家中を風が吹き抜ける。庭に打ち水をすれば、縁側に座るのが心地いい。


 日本家屋の建築構造が変わったのは、エアコンが出現して以降なのです。夏でも窓が閉めっきりに出来るってのは驚異的。


 エアコンがない時代、都会のアパートで僕は暮らしているが、玄関ドアは夏場は開けっ放し。ベランダ側から風が入り、玄関を抜けて行く。家族持ちの玄関には暖簾が下がり、いつも風を含んで大きく膨らんでいた。

 エアコンがない頃の暮らしは、隣近所から覗かれて当たり前ということですね。家族で食事しているのが、燐家から見える。プライバシーがないどころか、私的、個人的という概念すらなかった気がする。

 この個人的な事がないというのは、太古以来、当然の人間の暮らし方だったのです。


 江戸時代の旅日記の文献を読むと、大部屋で旅人の全てが雑魚寝だったとある。芭蕉の「奥の細道」では、新潟の宿で女性の二人連れに同行を乞われている。その女性の一人が遊女上がりと書かれていた。男女でさえ、別室ではなかったのは確か。

 我々は歴史的にいうなら、一人になるのは「便所の中だけ」という状態だったのです。


 この「便所の中だけが一人」を書いているのは夏目漱石。イギリスに留学して個室体験し、その挙げ句精神の病気を患った漱石は、日本に戻ってからの暮らしでよく癇癪を起こしたようだ。自室を出るなり我が子をいきなり殴ったとの反省の記述もある。その漱石が「厠が一番落ち着く」と書いている。便所という個室に、漱石は安穏を見出したのだろう。

 面白いのは、「我が輩は猫である」の結末。主人公の猫が、厠の糞壷に落下して死ぬ顛末になっている。

 僕は、この結末が漱石の天才性を示していると思う。個室には自死の欲望が発生するということだ。イギリス留学時、漱石は石の壁に囲まれた個室で、自殺の欲望にかられたのだろう。「個室」を基本とする西洋文明には、「自殺する欲望」に打ち勝つところからスタートするのです。


 皆さんには「自殺する欲望」といったってピンと来ないでしょうが、「個室」をビジネスホテルの単身用部屋と思って下さい。大抵、エロビデオが備えてあって利用されますよね。西洋風にいうなら「自殺する欲望」と「セックスする欲望」はとても近いと思ってください。

 個室で「性の妄想」に囚われ、それに打ち勝つところから生活がスタートするということですね。「性の妄想」に負けるのがオナニーで、オナニーの後は例外なく虚しさに囚われる。この虚しさが「自己嫌悪」を呼ぶのです。

 通常人は「自己嫌悪」に耐えられず「他人嫌悪」として意識する。質問者の文章は「虚しさ」からくる「他人嫌悪」の典型ですね。

 《悪い人じゃないけど、好きになれない。一緒に居ると疲れるわけは何故なんでしょう》

 質問者が問題にしている人が他人ならば一緒に居なきゃいいだけなんだけど、その場を去る気配がないのは「一緒にいて疲れる」のは他人ではなく自分自身だからです。

 これが意識できない「自己嫌悪」ですね。


 質問者に安心して欲しいのは、今の若者のほとんどが「意識できない自己嫌悪」を抱えています。故に、質問者は健全ですね。





| - | 17:30 | comments(1) | - |
演劇のコンピュター化について

質問

 でも、コンピュータに演劇は作れないんですよね?というか、膨大な戯曲テキストから、適当に抽出して、かたちにできないものですかね?


回答

 僕がやっているWSは「素人が4日間で芝居を作る」「出たい人が全部出る」ってのが謳い文句。これって、ちょっと考えれば変でしょう。こんな事が出来るわけがない。通常の演劇では、役者が舞台に出る為に少なくとも1ヶ月の稽古が常識。それ以前にキャステングされる為には、演劇大学や俳優養成所の経歴が必要だろう。

 それをゼロにしたのだから、芝居の組み立ての方法が違うのです。無論、演劇の考え方も違うのですが。


 実は僕はコンピュターを使っての組み立てを随分考えた。で、始めたのが小説だったのです。「一週間で小説を書こう」というWSを7年続けた。朝日新聞の懸賞募集で佳作になったり、2作品が商業出版されたから、ある種の成功だったのではなかろうか。


 僕は20歳代から、有名作家の小説の文章を解体して、「情景描写」を集める事をやっていた。コンピュターもパソコンもない時代に始めたから、名刺のようなカードに、ワンセンテンズづつ書き写した。

 「水銀が浮き出た鏡に、暗くなりかけた表が映っている」→日本家屋

 「開かない窓から外を見ると首都高速はいつもの大渋滞」→シティーホテル。

 といった具合に、あらゆる場所の描写を有名作家から拾って「索引ボックス」の様なものを作った。


 そんな事をしているうちに「情景描写」が「遠景、近景、音、匂い」に分けられるのが分った。「情景描写を細分化した」んですね。

 小説WSの参加記録によると、遠景は「地平線が線路の向こうに見える」。近景は「ススキの葉にカマキリの巣がある」。音は「運動場で遊ぶ子供の声が聞こえる」。匂いは「どこかの家のおかずは煮魚のようだ」。

 その他に、事実がある。「かず子を置いて家出した」。こんな風に客観的に起った事。それに対して「心情」がある。「みじめな自分が続くんだ」。本人の思い込みですね。そんな心情の逆がアクション。「刺した」「殴った」「破いた」のように事件が起るで「立ち上がって小便をした」のような文章。身体的な動作の代わりに台詞となることもある。「前から、嫌いだったよ」とか。

 参加者が無作為に作った文章を、意図的に並べると小説らしくなる。


 顔を伏せると運動場で遊ぶ子供の声が聞こえる。目の前のススキにカマキリの巣がある。地平線が線路の向こうに見える。

 かず子を置いて家出してしまった。今さら戻ったって惨めな自分が続くだけ。私は立ち上がると、地面に唾を吐いた。「ぺっ!」。実家を背にして私は集落の中をグングン歩いた。で。どこかの家のおかずは煮魚のようだ。

?

 これは今適当に作ったものだが、なんとなく夫や子供を捨てる若い嫁が浮かび上がってくるではないか。

 WS参加者が書いた、出だしの一部を読んで下さい。

「雨音に混じって、踏切の音が途切れ途切れに聞こえてくる。そういえば随分長く鳴り続けている。畳の上には食べ残しのコンビニ弁当。敷きっぱなしの蒲団の上で絵里が脱力して座っている。

(テレビをつけとけばよかったな)絵里の視線を逃れるのに疲れた僕は思った。

「何なのよ」

 さっきから絵里はこれしか言わない。おそらく絵里は、人を見下した表情をしているに違いない。

 胡座をかいた太腿とふくらはぎの間で、汗がぬるぬるして気持が悪かった。

 「隣人」

 何だろう?

 気が付くと僕は、指で何度も「隣人」と書いていた。いつの間にか目に入ったのだろう、目の前に「隣人13号」という漫画が転がっていた。「ああ…‥これか」と、僕は納得した。

 絵里が大きく溜め息をついた。

 「だから、妊娠してるって言ってんだろう!」

 (続く)

 ね、小説っぽいでしょう。小説って商売であり、大量生産しなくっちゃならないから「方程式」がある。この方程式さえ分れば、誰でも一級品とはいかなくても、プロ並の小説が書けることになる。

 小説によっては「恋愛小説」「時代小説」「犯罪小説」「児童文学」などなどのジャンルがあり、ジャンルによっては語彙の使い方や方程式が違うのを分るのが肝心。


 WSでは、毎日、数十人の参加者が、100枚の原稿を書き上げたのです。方程式さえキッチリしていれば、小説を書く行為は「悩む事」や「考える事」ではなくなる。指先の労働となるのはコンピュターゲームと同じ。

 コンピュターで遊ぶ事が、小説を書く事だったといえる。頭を空っぽにするのが前提ですね。煮つまると駄目。旧時代の人間となる。


 このコンピュター時代に、演劇がコンピュター化できないのは、芝居が利益を生まないからだろう。演劇が儲かれば、あっという間に演劇もコンピュター化されると僕は思っていますね。芝居は斜陽産業という事でもある。






| - | 12:39 | comments(1) | - |
「オナニー」について

質問

  雄三さん、オナニーって何歳ぐらいまでやればいいんですかね?


回答

 僕は病気がちで大量の抗生物質を飲んだからスタンダードだとはいえないけど、60歳ぐらいで勃起しなくなった気がする。それは性的な事柄で気がついたのではなく、あまりにチンチンが小さくなったからだ。親指ぐらいの大きさになった。おしっこのたびにチンチンを捜すのが一苦労。間に合わずズボンをぬらす。というより、便座に座って小便をすると、足元が濡れる。睾丸の上のペニスが余りに短くて、筒先が下向きにはならないからだ。

 僕は沢山の本を読んでいるが、老齢期のチンチンの縮小については、女性詩人の「父の思いで」の随筆にあったのみだ。


 性欲については個人差が激しい気がする。僕は「性欲」を生理現象とは思っていないからだ。

 僕は胆のう炎で、しょっちゅう嘔吐をもよおす。吐き気がある間は、当然食欲がない。そのはずだが、口が食べ物を欲しがる。周りの人が食べていたり、テレビで料理が出されると、ついつい食べ物に手が伸びる。そして嘔吐するから馬鹿みたいだ。

 だから、性欲にも「生理的な欲望」の他に、「みんながやっているなら俺」もの欲望があるのではなかろうか。「みんなが食べてるなら俺も食べたい」と同じ。


 だからオナニーもセックスもそうだけど、僕は30歳から40歳まで建築業で働いていたから、性的なことから遠い暮らしだった気がする。それはなにも、肉体労働だから身体が疲労するという意味ではなく、飯場のような合宿生活がまわりにあったから、周囲がセックスやオナニーをする環境になかったということだ。セクシーな雰囲気とは程遠い環境だったということ。

 こんな風に考えると、僕らの若い頃は「セックス」も「オナニー」もいけないという環境にあった。僕らの高校時代には、セックスもオナニーもしなかったということだ。

 僕の性的な理論からいうと、周りが性的じゃなかったから、こっちも性的になりようがなかった。「みんながやってないなら俺も」ということで、性的なことに煩わされることのない男女交際だったということだ。

 味気ないといえばそれまでだが、男は女の子に「自慢話をした」もんだ。その為に勉強したといえる。僕の演劇の知識のほとんどが、女の子のために仕入れたといえる。

 女の子は「男を立てる」ことにエネルギーを注いだんじゃなかろうか。興味ありげな相槌を、女の子は誰でも上手だった。そんな相槌に力づけられたものだ。


 僕の考えでは、性行為の開放はエロビデオにある気がする。今は懐かしい「VHS」と「ベーター」の戦争を思い出していただきたい。パナソニックがVHSで、ソニーがベーター。両者ともビデオ再生機の販売にしのぎを削ったのです。結局、パナソニックのVHSが勝利するのだが、その裏技がエロビデオだった。

 日本が世界に誇る大企業が、男女交接のモロ映像を秘密裏に製作し、ビデオ再生機購入のオマケとして配布したのだ。かくして、日本全国の中高生がセックス画像を目の当たりにすることになった。で、中高生がオナニーを覚えた。動物園の猿のように一度覚えた性的な快感が、一生続くこととなったのです。


 エロビデオよりテレビゲームを面白がる次世代が出てくると、質問者もそうだろうがエロビデオ世代の変さが目立つだろう。エロビデオ世代は、死ぬまでオナニーを続けるだろう。チンチンを握ったまま頓死する。それが本望じゃないかな。

 僕らの前の世代が「天皇陛下万歳!」で死んだように、エロビデオ世代がチンチンの鉄砲を発射して死亡するって大いにありうると思う。

 若い頃に覚えた快感は、生涯逃れられないものだと僕は思っているから、質問者も覚悟してオナニーに殉死する態度を薦めたい。性欲のイメージは、生理現象とは関係ないから、いつまでもチンチンを遊び道具に出来るのです。





 

| - | 12:59 | comments(1) | - |
漱石の「こころ」について

 朝日新聞で100年前に発表された夏目漱石の「こころ」が、復活連載開始されました。漱石好きな僕としては喜んでいる。というより、どんな反響があるか楽しみ。

 日本人に、西洋の「恋愛」を接木させたのは、夏目漱石の作品群であるというのが、僕の持論です。その典型が「こころ」。

 江戸期の文学である近松も西鶴の「色事」を扱ってはいるが、西洋で発達した「恋愛」(我々が思っている『恋愛』)とはほど遠い。


 僕より10歳上の姉は、お見合いで結婚。結婚までに顔を合わせた回数は知れているのじゃないかな。6歳上の長兄は、父親の知り合いの紹介で結婚したのだが、お見合いという形を取らなかったから、本人たちは「恋愛結婚」だと思っているかもしれない。ともかく、形はどうあれ「結婚を前提」として、しかも「親族の合意」の上で付き合いが始まった。

 3歳上の次兄は、職場で知り合って結婚したのだが、当時は職場自体が結婚活動の場所だったといえる。

 結婚を取り持つ仲人が、一番に考えていたのは、両家の釣り合い。家柄の格式や、貧富の差、家風(家の職業)、学歴が隔たってない方がベターとされていた。その伝統があまりにも長かったから、仲人の紹介がない現代となっても、結婚する本人も「両家の釣り合い」尊重せざるを得ないだろう。

 分かって欲しい重要な点は、「好きになったから、結婚するのではなく」、その逆の「結婚するから、好きになる」ということだ。


 これを読んでいる方々は(自分は違う)と思うだろうが、それは歴史の無視。だって、過去のほとんどの日本人は「お見合いで結婚」し、しかも「幸福な生涯をおくっている」のが事実です。この人と生涯を共にする決心から、「好き合う感情」が生まれたと考えるほうが現実だろう。

 自分だけは「好きな人と結婚する」あるいは「結婚した」と思うのはかまわないが、卵が先かニワトリが先かと同じ様なことで、ニワトリが先に決まっている


 周りというか、親や友人に認知された男女の付き合いがあるのに対して、周りから反対される男女の付き合いがある。いうならば、妨害者がいるのが「西洋的な恋愛」の基本なのです。

「ロミオとジュリエット」は、両家の仲たがい。「ハムレットとオフィーリア」では、王子と家臣という身分格差。「テンペスト」では、恨みあっている親の子供。

 シェークスピアは、はっきりと若い二人が結ばれる為の妨害を設定している。

 伊藤左千夫の「野菊の墓」では、女性が年上というだけで、仲を裂かれている。川端康成の「伊豆の踊り子」も、エリート学生と旅回りの芸人という設定。

 ほとんどの恋愛小説は、「愛し合っている二人が結ばれるには困難な要素」を設定しているのは間違いない。

 漱石の「こころ」は、当初「先生」は「お嬢さん」を好いてはいない。むしろ結婚させられるのではないかと恐れている。それが「K」という恋敵が現れることにより、一気に「お嬢さん」を奪ってしまう話だ。Kが妨害者となることにより、三角関係に燃えた男の話ということもできる。

「西洋的な恋愛」は、妨害者なしでは成立しないのです。


 漱石は西洋の「恋愛」を単に日本の土壌に植え替えただけではなく、独特の工夫をしている。西洋演劇の恋愛の妨害である社会的な格差を、日本に持ち込まなかった。家柄だとか身分は日本に馴染まないと考えたのだろう。

 で、漱石が発見した妨害者は親友。親友を「恋敵」に想定して燃えるという構造を作り上げたのだ。漱石の「こころ」が教科書に載ったせいもあるが、この親友が妨害者としての「恋愛」が日本に定着したようだ。

 村上春樹の小説も漱石の「先生」「K」「お嬢さん」と同じように、「僕」「鼠」「直子」と「ノルウエーの森」では人物が配置されている。


 僕自身について語るなら、僕は漱石に惑わされる事なく、「好き嫌い」で結婚したのではないと思う。実をいうと、僕は一度だけお見合い写真を見せられた事がある。咄嗟に拒絶したけど、50年経った今でも克明にその写真を覚えているのはショックがあったからだろう。「お前の連れ合いはこのレベル」ということで、「僕の社会的な程度」という評価を突き付けられた気がした。密かに思う「好きな女性」とのレベルの違いは明らか。見合い写真の女性は、僕が鼻も引っかけないタイプだった。という事は、僕も鼻も引っかけられない有象無象の一人という事だ。


 漱石の「こころ」の主要な3人の登場人物の「先生」「K」「私」は、いうならば「オタク」といえる。親族や他人との交際を絶って、狭い世界に興味を持っている。それに「先生」が代表的だが、働く気がない。いいかえると働かなくても親の資産で暮らして行ける。だからオタクの生きる道、すなわち「恋愛」を描いている。期せずしてというか、村上春樹の新作短編集「女のいない男たち」も恋愛を描いている。

 お見合い体質にどっぷり浸かった雄三の体質からすると、村上春樹は「恋愛の断末魔」に思えてならない。もうすぐ「恋愛の灯」は消えるのだろう。性的な好奇心が、精神的なコミニケーションにはなりえないということだ。その点を村上春樹は探っている気がする。

 恋愛はどうでもいいが、若い人は結婚する。きっと僕の知らないところで「新しい結婚の形式」が広まっているのだろう。それを知りたいものだ。





 
| - | 14:02 | comments(1) | - |
「韓国のフェリー事故」について
?質問

 何百人を置き去りに真っ先に逃げる船長の心情を、解説できますか。

?

回答

 我々はコンピューター制御の巨大なシステムの中でで暮らしているのに、前世紀の個人の能力によって物事が進むという迷信にとらわれている。その典型が、福島原発事故であり、本質は原子力の安全神話にある。

 チェルノブイリの事故原因を、作業員の操作ミスといして、「原子力の安全神話」を守ったといえる。作業員が誤ってスイッチを入れる事により、放射能が撒き散らされ、多くの人が死んだとするなら、暴走トラックと変わらない。一個人の能力を信用しないのが、コンピュターシステムだろう。何重にも安全装置のチェックがあってしかるべきだし、現実もそうなっているに違いない。


 最近、大騒ぎされて忘れられた事故に、マレーシア飛行機の行方不明がある。あの事故も当初機長のテロ説がまことしやかに報道された。動機も方法も分らないのに、機長が仕組んだとした方が、一般人には分り易かったのだろう。零細企業のワンマン社長のように、機長が自由自在に飛行機をあやつれるという化石のような常識が元になっている。


 僕が福島原発事故で笑ったのは、官直人元首相の東電に乗り込む姿だ。有能な指揮官が居れば、事故が最小限に防げると思い込んでいる時代遅れさ。大袈裟にいうならば、原子力のシステムには人間の判断が入り込む隙がない。コンピュターがコンピュターを動かすと思って間違いない。専門家といえど、ただ見守るしかないのが実態だろう。これを官元首相は、東電の怠慢と受け取っていたのだろう。官首相は血相を変え、額に青筋を立てていた。


 マスコミを代表とする世間は、コンピュター時代を理解していないのは、菅直人元首相と同じだろう。個人の能力が、巨大なフェリーを動かしていると思い込んでいる。逆にいうなら、船長さえしっかりしていれば、事故は防げなかったにしろ、もっと多くの人命が助かったろうと思い込んでいる。それはそうかも知れないが、枝葉末節なのだ。

 このフェリーのコンピュターシステムが作動しなかった事が、問題だろう。船長が先に逃げたという、分かりやすい怒りの矛先で、「鬱憤晴らし」にしているのが現状。被害者の肉親ならともかく、異国の僕は、あの船長に石を投げることはしない。


 願わくば、このフェリーのコンピュター安全システムが働かなくなった、大きな理由が明らかになる事を望む。

 僕の推測では、安全システムのスイッチが切られていたのではないかと思う。例えば積載の重量が限度を超えていて、それが日常化していたから、重量制限のコンピュターシステムの元が間違いなのだから、コンピュター表示は誤作動であり、誤作動であってもフェリーの安全神話が生きていたということかな。

 福島原発事故で、現場の責任者は最期の最期まで、原子炉は爆発しないと信じていたようだ。そんなことが起ったら大変だからね。それと同じように、巨大なフェリーの安全神話を信じていた乗組員は、フェーリーが沈まないと思い込もうとしていても不思議じゃない。

 船長といえどフェリーのコンピュタァーシステムの全容は分らないだろうし、設計者である本社の技術者も分るのは部分に過ぎないのではなかろうか。

 福島原発事故で起った事は、まさにそれ。すべての電源が切れた場合のバッテリーシステムが、津波に備えてはいなかったのだ。バッテリーシステムの設計者は「全ての電源を失う」という想定に「津波がなかった」ということ。何の想定もなく、バッテリーシステムのみを完璧に作ったのだろう。


 いずれにしろ、僕はあんなに速いスピードで大型船が沈む映像を見た事がない。軍艦というか、船の常識である、浸水した場合に防護壁で食い止めるという設計ではなかったのだろう。この船は浸水しないという「安全神話」の上に成り立っている設計のような気がしてならない。


 この船の船長に唾を吐きかけるのもいいが、我々の周りのシステムが、個人の判断から、コンピュターシステムに移行した事を知るべきだろう。コンピュターのせいには出来ないから、前世紀の常識を持って来て、名ばかりの船長の形骸を憎むのだ。




| - | 12:58 | comments(2) | - |
「勉強しなさい!」について
質問

テレビばかり見ていないで勉強しなさい!とはよくいいますが、

勉強ばかりしていないで○○しなさい!雄三さんなら○○に何を入れますか?


回答

 僕が育ったのは農村地帯だから「勉強しなさい!」とは誰も言わなかった。僕も言われたことはないと思う。もっぱら言われる小言は「家の手伝いをしなさい」ということ。というより、「家の手伝い」は当然の事で、毎日の仕事が「当て仕事」として割り当てられていた。

 朝食前の、ニワトリの世話と縁側の雑巾がけ。その他に、季節ごとの「庭の草むしり」に「畑の世話」。田んぼの畝に餓えた大豆を収穫し、殻から実を出すのも子供の仕事だった。そして農家のイベントである田植えと稲刈りがあった。


 それでも男兄弟の僕らは「何の役にも立たん」と叱られていた。姉はご飯の支度に後片付けなどの日々の仕事に役立ったのだろう。

 その姉が成績優秀で、男兄弟の僕らは総じて学校の出来が悪かった。


 金沢に住む従兄弟が夏休みに僕の家に長逗留していて、そのお母さんが、僕を引き合いに出して、従兄弟を叱責していた。

「ユーちゃんは言われんでも勉強するのに、あんたは何遍言われても、何で勉強しないの!」

 従兄弟は中学受験でエリートの中学に入ったが、僕にはその意味がサッパリ分らなかった。


 そんな訳で、僕は我が子に「勉強しろ」と言ったことはない。連れ合いが息子の受験の為の三者面談で「先生、偏差値って何ですか?」質問して担任に呆れられたそうだ。

 だから僕などは、むしろ「勉強するな」「学校に行くな」と言っていた気がする。長男は演出家に、次男は役者にしようと思っていた。

 が、思春期になって親の考えが偏っていると気がついてからは、僕の言う事を「笑いのタネ」にしかしなくなった。


 まぁー、僕が勉強より大事だと思うのは「挫折」だろうね。若いうちに、どう足掻いても「ここを抜け出せない」と思うのが大亊じゃないかな。才能とか努力が関係ないのが「人生と知ること」というのかな。

 心理学を勉強した息子から、僕の発言がたびたび注意される。「君は、自分が不細工だと、いつ気がついたの?」と僕は若い女性によく聞くからね。これは傲慢だからいけないって。僕は片足がないから、「可哀想に」が勝り、傲慢が許されるのが息子には分らない。

 そしてこのような質問は、女性は自分の容姿に意識的である事が多いから、明確な答えが返ってきたりする。

「小学生の高学年で『ドラえもん』ってあだ名が付いたんです。その時に、顔が大きいと分りました」

 こう答えた女性は、おかっぱのヘヤースタイルで顎のラインを隠していた。意識的なヘヤースタイルなのだろう。


 自分の欠点を矯正するのではなくて、受け入れるのが人生だろうと思いますね。質問者の問いに答えるならば、「勉強ばっかりしないで、『勉強の無駄』を知れ」となるかな。





| - | 14:45 | comments(1) | - |
「慰安婦の問題」について 

 韓国が騒ぐ「慰安婦問題」が、日本人には理解できない。その典型がNHKの籾井会長の発言で、大阪市長の橋下徹が全面的に賛意を述べている。「慰安婦」は「戦争しているどこの国にもあった」という主旨。どの地の戦場にも性のはけ口があったのは事実だから、この点に議論の余地がないのは確かだ。


 韓国が問題にしているのは、慰安婦の存在の有無ではなく、日本国家の関与で韓国女子を慰安婦にしたという点なのだ。当時の日本国家というのは軍隊の事だから、銃剣で脅されて慰安婦にさせられたということだ。これだと、限りなくレイプに近づく。それも国家あげてのレイプだ。

 長年、日本国は民間組織が韓国女子を募り売春婦にしたと主張していた。これだと、希望者が慰安婦になったということになる。貧困の為に身を投げ出すというのが「売春」の基本構造だからね。当の娘たちは、親の為に嫌々売春婦となった。


 河野談話というのが問題になっているが、慰安婦問題で国に関与を認めたとう点が、単なる謝罪とは違う。日本軍が韓国女子を強制連行して、慰安婦にしたのを認めている。

 韓国側からすると、河野談話で慰安婦の強制を認めておきながら、橋下発言のように「慰安婦はどこの国にもあった」「何故日本だけが問題視されるのか」「沖縄の風俗街をアメリカ兵が利用すればいい」などと、問題点をすり替えているように映るのだろう。

 韓国側の主張の「強制的に慰安婦にした」という点からすると、日本の政治家は意図的に問題点をすり替えているようにしか受け取れない。だって国家が強制してレイプのようなことをしたなら、後の政治家が反省はすれど忘れる事がないということだ。韓国側からすると、二枚舌の汚い政治家となるのです。韓国がたびたび主張する「正しい歴史認識を持て」という気持も分るではないか。


 橋下徹や籾井会長が二枚舌の嘘つきではないのは、多くの日本国民は理解している。むしろ、韓国がいつまで昔の戦争のことで「謝れ」を繰り返すのかに辟易している。たんびに韓国の気がすむように謝ってきたではないか。だが今度も謝らないと韓国がギャギャいうだろうな。「大人しくしようぜ」というのが世論ではなかろうか。

 だから橋下や籾井会長に対する日本人の反意も「本音を言っちゃおしまいよ」という感じがあるように思えてならない。


 もう一度書くが「慰安婦は「戦争しているどこの国にもあった」ということと、「強制連行して慰安婦にした」の違いが問題になっているのだ。が、日本人の我々は、「慰安婦になる」「ならない」が「軍(国家)の強制」と結び付かないのだろう。文化的な背景というのかな。

 例えば、銃を突き付けられて強姦を迫られた婦人は、「舌を噛み切って死ぬ」という美意識が日本にはある。会津の白虎隊の例を持ち出すまでもなく、そんな時代劇が多い。これとは逆に、強姦を強要された婦人が「分った」と自ら服を脱ぐ美意識もある。戦後の売春婦やアメリカ兵相手の娼婦を勤めた話を、田村泰次郎が小説にしている。それらは爆発的に売れている。


 終戦後、何のためらいもなく、むしろ進んでアメリカ文化を取り入れた日本国は、米国に銃を突き付けられて、自ら日本文化の着物を脱いだ娘のようではあるまいか。


 昭和初期の東北が飢饉で娘が売られたという話が教科書にも載っていた。掲載されていた写真が忘れられない。「娘、身売の場合、当相談所においで下さい。○○村」

 行政が「娘の身売り」に手を貸していたという紛れもない事実。堂々と看板を出していると言う事は、村人が容認している事であり、善意からの「人助け」の合意が取れていたと思われる。

 これが、時代を経てから問題視されれば、国家が強制的に女子を娼婦にしたとなりかねない。

 僕は韓国がいう「慰安婦の問題」は、ここまで時間が経つことによる常識の変化と、国柄の違いで誤解は解けないと思う。だから解決すべき問題ではなく、「先送り」を繰り返して、過去の出来事となるまで待つしかない気がする。だから「慰安婦問題」に沈黙するか、どうでもいい発言をする古い政治家をしたたかで、正しいと思う。





| - | 13:52 | comments(1) | - |
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+ 森田雄三プロフィール
1946年・・・石川県白山市に生まれる。 2006年・・・兵庫県高砂市の教師とワークショップで芝居を作る。 スイス国立演劇学校(HMT)の教授となる。           ワークショップに関する本が何冊も出版される。           ワークショップに参加した人達、通称:「森田雄三チルドレン」が、ソーシャルネットワーキングサイト「mixi」(ミクシィ)でも多数存在し、ワークショップでの出来事・森田が話した内容「雄三トーク集」なるコメントがされている。 イッセー尾形の演出家。
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